経済史を学ぶ動機などあるのか?
結論
動機はある
経済システムは直線的に変化しているが、ヒトの反応は循環的に現れる、と言ってもいい。心理学と歴史学の交差点としての経済史こそ、先読みを助けるにふさわしい分野である。
巨大な経済システムのなかで社会生活を営むうえでは、先読みをして失敗を防ぐのが有効だ。ならば、一にも二にも経済史から学びなおすのがよい。主体的立場での理由を以下で述べる。「学ばなくていい人」にも言及しておく。
人は本から学べないのが普通である
すべての科目を網羅しないにせよ、いま日本では高校までは誰でも社会科の教科を習っている。
オタク気質がない大部分の人にとっては、社会科というのは「自分とは関係もない遠くのことや人にかかわる用語を、強制的に暗記させられる教科・科目」という印象だ。
もちろん、正しい認識である。
ことさらリスキリングとか「大人の学びなおし」とか言われるようになって久しい。無理やり「本来人は学ぶ生き物である」などという仮定から人材教育を語る場面も見られる。
だが、事実としては、学びなどやりたくないのだ。確かにヒトは学ぶ生き物だ。いや、すべて動物は学ぶ生き物である。
だが、そもそもヒトは本から知識を摂取できるように生まれてきていない。
「ヒトは環境から試行錯誤のなかで、身近な生存活動に必要な身体技能および認知技能を訓練する」ということにすぎない。工業製品の平均値レンジとして、ヒトの学習における設計仕様・性能を見るべきだ。
学校の勉強は、マイナスをゼロにするためにある
別記事で述べたが、とりわけ日本の検定教科書は「知っておかないとヤバいこと」を網羅しただけの授業書にすぎない。マイナスをゼロにもっていくための訓練であるといえる。
冷静に考えてみたほうがいい。現代の都市生活では、生まれ持った認知能力だけではまったく足りないのは明らかだ。交通規則、会計など幼いころから社会的知識がなければ生きることができない。
つまり、生まれ持った認知能力のもたらす社会的便益は実質ゼロである。いやむしろ、早く変化している社会的な知識蓄積のペースから見れば、おいていかれるマイナスの状態でさえある。
学校の検定教科書では、おいていかれるペースを緩めるのが眼目なのだ。マイナスをゼロにするために、「知っておかないとヤバいこと」を幼少期から10代までにかけて身に付けさせようというわけだ。
だから最上位層を青天井に伸ばすのはそもそも考えにない。全人的人格形成としての教育であって、下位層の底抜けを防ぐのが狙いである。
高校まで、検定教科書の内容がどれだけ頭に詰め込めてペーパーテストで制限時間内に再現できたとしても、「役に立つ」という結果を実感することはほぼない。あくまでも「高い点数をとれることが社会的に評価される」という価値観への迎合でしかない。
言い換えれば「いい学校に入って、いい会社に入って、いい給料を得る」という価値観のみである。教科書の記述内容そのものには、親も子も価値を感じない。
学びはコスト。コストをかけたいと思わないならやらないでいい。
教育哲学者は昨今の、教育含めてなんでも合理性や功利主義に還元してしまう社会のありようを嘆く。しかし、事実としての、一般大衆にとっては教育とはコストや投資の一形態にすぎない。
だから、経済合理性を念頭において「これは何の役に立つの?」とひとつひとつを検討することは、まさしく賢い消費者像そのものである。
「食っていけるなら、学ばないし働かない!」と高らかに宣言できる人がいることは、人類史でみたときの豊かさの究極形態といえるだろう。
しかし不安もある。「食っていけるなら」という仮定のことである。なるほど、社会保障としての年金、生活保護、ベーシックインカムなどの制度も確かに福祉としてつくられている。
日がな一日ゲームやスマホに興じて、最小限のコストのみで生きるスタイルならば、確かに(ゲーム配信ユーチューバーでうまくいかなくても)都市生活を送れるだろう。
だれもが意識高い職人やスタートアップ起業家などではない。古代以来、労働は苦役である。そもそも、脱工業化社会においてのお金とは「自分がやりたくないことを他人にやらせる正当な手段」でさえある。
多くの人が、学校の道徳・倫理として「人が嫌がることはやめましょう」と教わって内面化している。「金を払ってやりたくないことをやらせる」というのも通用せず、さまざまなハラスメント対策やガバナンス対応がなされ、社会は脱臭・漂白されている。
行き着くのは「金がもらえなくてもいいから、やりたくないことはやらない」という価値観であるわけだ。ユーチューバーの「好きなことで生きていく」というフレーズが多くの人の心に響くことになる。長らく小学生のなりたい職業トップがユーチューバーだったのも首肯できる。
学びのコストなしには、パフォーマンスはマイナスになる
だが、2024年を振り返ると、経済的現実は甘くないという認識も広がった1年間だった。ユーチューバーの広告収益が低下していて、上位層専業ユーチューバーでさえ撤退してきている。華々しかったユーチューバーも会社員に戻ったり、謎の物販サイト運営に血道を上げているという。
理想のワークライフバランスを追求するためのフリーランスも同様だ。フリーランス新法までできたにもかかわらず、いま、あえて会社員に戻るフリーランスが増えているのだという。地方移住をしたデザイナーとかプログラマーは、先読みにおいて勘違いだったのである。
いったいぜんたい、「好きなことで生きていく」のではなかったのか?
では大企業に勤めれば安泰なのか?ちょっと違うようでもある。2024年は東京証券取引所で始めて上場企業数が減少に転じた。有名な企業がこぞって上場廃止をしたからである。
東京証券取引所は渋沢栄一が設計した制度に則っていて、米国ナスダックなどよりもはるかにまともなマーケットを持続する仕組みが構築されている。ナスダックで上場廃止はコストカットとして珍しくない(というか上場企業であるという触れ込みそのものが、あまり威信につながらない)。
だが、東証で上場廃止が増加というのは、大企業経営そのものが困難であることの実証と言わざるを得ない。なにしろ戦前からの自動車会社である日産でさえ、いまのままでいられない状況なのである。
NISAを始める前に立ち止まれ
「これからは日本株がくる!」といってNISAの投資が推し進められている風潮ではある。「今日が人生で一番若い日!投資は早く始めるほどいい!急いで行動せよ!」という金融投資系インフルエンサーの言葉にも一理ある。
しかし、上場企業の経営の舵取りが困難になっているという事実に目を向けるべきだ。証券会社のサイトで銘柄選びに「どーれーにーしよーかーなー」などと目移りする前に、立ちどまる必要がある。
立ちどまって何をするのか?なるほど、ステップバイステップで身体動作を指示されないと何もできない。学校でも職場でも、ほぼあらゆるタスクは定型化、明文化されている。最小限の労力で最大限の成果をだしたい。試行錯誤お断りというわけだ。
まず、試行錯誤ができないならば、資産運用などしないほうがいい。
だれにでも当てはまる最適解が見当たらないのに試行錯誤もしたくない?
65歳以上の人ならわかると思う。バブル期前後までは毎年昇給して、普通預金の金利が5%ということだった。資産を積極投資しなくても、銀行に預けているだけで普通に複利の恩恵を得られた。まさに低リスク、試行錯誤なしでの最適解が用意されていた。
いまも金利は少し戻ったとはいえ、普通預金金利が5%などということにはなりそうにない。金利を味方につけたいなら預金貯蓄以外が必要だというのは昨今常識となっている。
だが、いまからNISAを安易に始めていいのかは慎重に検討すべきだ。そもそもNISAは泡銭でやるものだ。日々の暮らしを逆転させる収入源になどならない。ローンや借金があるような状況において、一発逆転でテンバガーを狙うみたいなことをしてはいけない。
泡銭があったとしても、安易に金融資産にお金を張るべきでもない。たとえばこの2,3年では相場は大きく崩れていない。平坦または上り調子の相場が続いている。言い換えれば、ドットコムバブル、リーマンショックのような暴落を味わったことがない人がたくさん株式取引やETFに参入してしまった。
はたして本当に一般人の精神力で「いざ暴落したときに慌てて売らずにホールドし続ける」というのが可能だろうか?「損切りは早めに!」という言葉を優先してしまうのではないのか?「あとで含み損になったらどうしよう」という不安と向き合えるのか?
汝、自分を知れ
ヒトは「時間差で生じるフィードバック」の処理が苦手である。サバンナでのサバイバル生活のころの名残(つまり生まれ持っての認知能力)として、「即時的な等価交換」をあらゆる現象に対して無意識に前提してしまう。言い換えれば無時間的な反応だけが得意である。時間差攻撃にめっぽう弱い。
株式市場の反応とは、社会のなかの集団的な投資家心理の時間差つき反応である。「ディープラーニングで株価予想してみました!」みたいなQiitaの「自分の学びのための記録」のような天真爛漫なものではない。徹底的な他人軸での心理の読みである。「自分らしく決めよう」などとヌルいことを言っているファンドマネージャーは即クビである。
すこし長くなった。「NISAで個別企業やインデックス連動の銘柄を選ぶ前に立ちどまって考える」の在り方に、少しきづくことができたろうか?もし何も気づけないなら、変な雑誌か証券営業マンか情報商材の餌食になるだろう。
資産形成の文脈でいえば、重要なのは「勝つ銘柄を選ぶこと」ではなく「負けない資産防衛をすること」である。
負けないための戦略というのを、学校では教えていない。高校での歴史は政治史・文化史ばかりに比重がある。公民での経済は単なる理論の一部の切り取りのみを断片的に教える。家庭科では節約くらいしか教えない。
学校の勉強とは、グレーゾーンに入る準備のための準備
検定教科書の記述とは「強者の歴史のダイジェスト」にすぎない。表舞台に出てきたごく一部の傑物の栄枯盛衰が断片的に表れているいるのみだ。傑物の背後に多くの敗者や落伍者がいた事実を伏せてしまう。
なるほど、もしも先進テクノロジー分野や伝統的数学分野での画期的な研究論文を書くのなら、傑物を目指して規範を目指して、ひたすら邁進すればいいだろう。ダイジェスト的な知識で要点を整理していくことで全体の俯瞰はむしろしやすくなる。
言うまでもないが、通常の商売やら投資やらを介した生身の人間関係が重要な社会生活をするのなら、ダイジェストでの規範的知識では通じない。「見ず知らずの人の心理の普遍的特性」を把握する必要がある。単なるハラスメントとかガバナンスのような漂白された領域ではなく、グレーゾーンに入り込む必要がある。
「できるだけコストを減らして、漂白された領域で安全に過ごせていたい」というのもいいだろう。安全神話を目指して節制に励み、働かない生活も悪くない。経済成長や資産形成がすべてではない。
ただ、皆が無気力に漂白安全地帯で家畜のように過ごすことだけが最適解となってしまうのは、大変息苦しい。グレーゾーンに踏み込みたい人もいるだろう。だが、何も考えずに皮算用でグレーゾーンに踏み込む人もいるのだろう。
グレーゾーンに入らないほうがいい人、入る気がない人、入ろうと考える人
私としては、「漂白安全地帯にいるだけでいい人がグレーゾーンに入ってしまうのを防ぐこと」と「グレーゾーンに入る気概と余裕を持っているが、グレーゾーンのことをざっくりしかわかっていない人」の二種類を助ける必要があると考える。
すなわち、ひ弱な人には「やめとけ!」と言い、マッチョな人には「致命傷を防ぐにはね、、、」と言う。助言として重要だと考えるのが、ほかでもない経済史である、ということなのである。
「ずっと漂白安全地帯でおとなしくしていよう」と考えている人にとっては、経済史など、高校までの社会科同様に無駄である。好きな動画やゲームをやってくれたほうがいいだろう。
私がこれからの記事で紹介していく知識は、ひょっとすると役に立つ人もいると考える。
「グレーゾーンで穴場を幸運に見つけたいなー」などという楽観的な人を落とし穴に行く前に止めることができる。あるいは「致命傷にならない罠はどれか見分けたい」という人に判別法を部分的に提供することができるだろう。
なにも株式投資に限ったことではない。学校・職業選び、住むところ、異性、友達などさまざまな選択や決定において役だちうる。歴史に学ぶことで、自分のリスクのとれる範囲の見定め方を鍛えることができる。
一流のリーダーが学ぶものを学んでもしかたない
「一流のリーダーは〇〇を学べ!」などという自意識過剰なことは言わない。〇〇に当てはまるのは現代思想、表象文化論、統計学、神経科学、文化人類学、宗教思想、行動経済学、ゲーム理論? クラシック音楽、ワイン、現代アート、瞑想、即興、登山?
冷静に考えてみたほうがいい。高校までの内容さえ十分学べていないのだ。たくさんのことをいまさら学べるはずがない。スタンフォード出のマッキンゼー上がりのシリコンバレー起業家でもないのだ。そんなにすらすら頭に入るなら、いまごろ苦労していないはずである。
ワインやらクラシック音楽などはフランス的な一流のことだろう。文化資本が社会階級ごとに異なっていて、「お里が知れる」を地で行く社会だからだ。つまり貧困層や成り上がり連中が入り込めないハイソなコミュニティをつくるためだ。
しかし、文化において日本はきわめて雑食的で開かれていて民主的である。ワインや登山をやっても、そもそもMBAを出ても一流リーダーになどなれない。
学ぶべきはとりあえず経済史だけでいい
学ぶべきは、未来を見通すための知恵をつける技術としての歴史、すなわち経済史である。「とりあえず経済史を学べ!先読みできる人になれ!」という一本である。
貧困、不平等、恐慌、暴落のなかで、どうすると失敗したか、あるいは失敗しなかったか。つまり「経済史のなかでの失敗ケーススタディ」を見ることが役立つ。
確かに経済システムは日々変化している。過去のケーススタディがそのまま現代および未来において通用することはありえない。
ところがヒトの認知特性は生物学的にはまったく変わっていない。ピンチのときにマジョリティがどんな反応をするかについて、普遍性や再現性がある。経済史での実証的かつ時間軸での分析が役だつ。
理論重視のミクロ経済やマクロ経済も、ある意味では有効だろう。だが、経済理論の多くは時間発展を考慮していない。無時間的なモデルである。「ヒトは時間差フィードバックに弱い」という穴を埋めるにあたり、経済理論は何も補強にならない。やはり取り組むべきは、経済史なのである。