あだ名禁止、「さん」付け推奨から考える、立派な大人の条件
小学校でのあだ名・呼び捨て禁止、「さん」づけで呼ぶことを推奨する指導が話題になっています。詳細は今さら紹介するまでもないと思いますが、賛否両論ありますね。何事もやらずに批判するのは良くないので、「いいと思うならやってみればいい」というのが私の考えです。
肯定の意見としては、「さん」づけで呼ぶのは、丁寧な言葉使いにつながったり、あだ名の禁止はいじめの抑止になったりといったものがあります。確かにそうかなと思います。我々が子ども頃は平気で「デブ太郎」とか「うんこマン」とか悪口100%のあだ名をつけていました。今にしてみると、もう少しひねれよ!と思いますが、悪口は良くありません。
一方で学生時代の友人は「ヒロシ」「ヨシロー」「ダイスケ」…みたいにみんな呼び捨てです。相手も私のことを「カズ」「カズヒコ」と呼びます。ファーストネームで呼ぶのは個人的には好きですけどね。
話が逸れました。この話に限らず、子どもの頃に教わることというのは、実は社会に出てから大事なことばかりです。
立派な大人の条件ってなんだと思いますか? 社会的地位があること? たくさん資格を持っていること? 収入が多いこと? ブランドものを身につけていること?……違います。そんなことよりも大事なことは、「子ども頃に教わったことをしっかりできていること」ではないでしょうか。
そんなこと!?と思うかもしれませんが、少し考えてみてください。子どもの頃に教わることってどんなことがあるでしょう。
「元気よく挨拶しましょう」
「人に優しくしましょう」
「困っている人がいたら助けましょう」
「ウソはつかないで約束を守りましょう」
「ケンカをしたら仲直りしましょう」
「遅刻や忘れものをしないようにしましょう」
「好き嫌いしないで(アレルギー除く)ご飯は残さず食べましょう」
「一生懸命取り組みましょう」
「わからないことは質問しましょう」
「みんなで決めたルールはしっかり守りましょう」
……etc。
幼稚園や小学校で教わることばかりですが、これを全部できる人って立派だと思いませんか。子どもの頃に教わることというのは、生きていくうえでとても大事なことだから、早い段階で教わるわけです。だから、子どもの頃に教わったことさえできていれば、社会に出てもだいたいのことはうまくいきます。
逆に大人になってこれができていないと、“ダメな大人”と言われるのです。ろくに挨拶できない。しょっちゅう遅刻をする。優しさのカケラもない。電車でお年寄りや妊婦さんが立っていても見て見ぬふり……。そして、「みんなで決めたルールを守らない」から、犯罪が起きるのです。
話を戻すと、あだ名禁止や、「さん」づけで呼ぶという指導も、子どもに本質を伝えなければ意味がありません。「先生にこうしろって言われたからやっています」では、子どもには何も伝わっていません。この取り組みの本当の意味は、人に優しく、相手を尊重することの大切さを伝えることだと思います。また、みんなで決めたルールを守るということを教えられれば、すごく意味のあるものになるのではないでしょうか。
さて、こうした一般的に誰もが教わることに加えて、私は小学生のときに教わったことで、強く印象に残っているものがあります。それは「おかしいことにはおかしいと言え」という教えです。
「君たちは、おかしいこと、間違っていることに“ずるい”“おかしい”と言える。それは素晴らしいことです。大人になるとおかしいと思っても言えなくなってしまうことがあります。だけど、おかしいことはおかしい、ダメなことはダメなんだと、どんな立場の相手にも言える大人になってください」
この言葉を聞いたときは、なんで大人になるとおかしいことをおかしいと言えなくなるのだろう?と疑問でしたが、もちろん今はその意味もわかります。偉い人に盾をつけば、不利益を与えられるかもしれません。だけど、おかしいものはおかしい。ダメなものはダメなんです。過去のnoteを見てもらえばわかりますが、私はこの子どもの頃の教えを今も大事にしています。上司にNOと言っても不利益を受けたことはないので、たぶん子どもの頃に教わったことは間違っていないのでしょう。
というわけで、子どもの頃に教わったことはとても大事だということをわかってもらえたでしょうか。当たり前のことを当たり前にやる。難しいことではないので、まずは元気な挨拶から心がけてみましょう。