勝ち負け
小さい頃、近所に出来たテニススクールに通っていたことがある。運動神経が良かったので、すぐにステップアップして上のコースへ上がっていった。その内、コーチに「いい筋している!」と気に入られて、試合に出るように勧められた。テニス自体は好きで、楽しかったのだが、その特別扱い的な感じがとても嫌で、試合に出ても一切本気でプレーをしなかった。適当にやってるのに勝ってしまって、少しづつ強い相手になっていく。サーブで飛んでくる重みのあるボールがやる気なく持つラケットに当たると手首がじんじんし、ラケットごと持っていかれそうになる。ふらふらになりながら早いボールを一応、追いかけてはネットにかけ、無様に試合終了となる。いかにも強い相手に悲惨な負け方をするのは嫌で、そこそこの相手のうちにわざと負けて敗退したりもした。本気でやってないから、負けてもそれほど悔しくなく、淡々と一日を過ごした…。あの頃の私はいったい何をしたかったのか…。
試合で勝ち進むより、相手がいないハードな練習をしている時が一番楽しかった。そんなやる気のなさはコーチにも伝わり、いつしか、私の名前を呼ばなくなって、今度は妹の名前が頻繁に呼ばれるようになった。妹は負けん気が強く、試合も良く勝って見た目に上達して強くなっていった。その頃には、それがとても羨ましくて、うまくなりたいと言う気持ちが沸々と心の中に湧いていた。が、もう時すでに遅し…だった。
妹とラリーをしてみたところ、そのボールの重みが以前対戦した、いかにも強い相手のボールの重みと同じで、力の差を感じてしまったのだ。と同時に、自分が全く成長せずにずっと同じところにいるということに気づかされて、愕然としたのを覚えている。本当に、もったいない時間を過ごしていたものだ。それから、噴気するならまだマシだったが、私はテニスから逃げた。中学の部活に入らなくてはならなくなったというのを理由に、ラケットを持つことは無くなった。結構好きだったのに、自分で戻れない状況を作ってしまったのだ。
部活はテニス部が無かったので、バレー部に入った。背が低いくせにバレー部。だからポジションはセッター。しかも代わりのセッターがいなかったので、常にフル出場。休めもしない。テニスから逃れて入っては見たけど、逃れてきたにしては練習が兎に角きつくて、コーチの先生も男子バレー部が引くくらい怖かった。チームプレイ。自分が本気でないと誰かに迷惑がかかる。テニスでしてしまったような同じことは許されない。必死でやるしかなかった。誰かのミスはみんなでフォローし、ミスをしたら次で挽回する。勝てばうれしくて泣き、負ければ悔しくてみんなで泣いた。テニスで出来なかったことをバレー部で補うように全力で頑張った…ように思う。力を出し切って勝てた時の爽快感。力を出し切っても勝てなかった喪失感。本当の力が出せず、無様に負けた悔しさ。全力で取り組まないと感じることが出来ないいろんな感情をバレー部で知れたのだと思う。
みんな頑張っているのに、優越をつけるのはいかがなものかと、運動会で順位をつけない幼稚園や小学校がある…という話を聞いたことがある。みんなで頑張って、みんな仲良く良かったね~。で終わるのは実に勿体ない。勝った負けた、一等賞を目指して頑張るからこそ見えるものがあるはず。それを早いうちに感じれた方がいいに決まってる。自分が逃げたから言う訳ではないけど、負けて逃げてもいいのではないかと思う。自分が勝てる何かを探すきっかけにもなるのではないか?それも勝ち負けが合ってこそ。アイツには到底勝てないとか、自分が一番と思っていたら実は世界は広く、強いやつが山ほどいた…と気づいたり。そこから自分を明らめることに繋げることができる。
平昌オリンピックが始まってる。人生の多くの時間をこの日の為にこの一瞬の為に費やしてきた多くの選手たち。自分の持てる力をいかに存分に発揮できるかが鍵。本当にすごいなって思う。メダルを取れたら最高だけど、挑戦して頑張った姿が素晴らしいと思う。惜しくもこの舞台に立てなかった選手も悔しさを胸に次に向けて闘志を燃やしているかもしれない。そういう風に何かに打ち込むことができたら素晴らしい…。勝ち負けは断然必要だし、勝ってこそだと勝ちにこだわるのも当然だけど…最後の最後、勝ったか負けたかは関係なく、そこを目指した過程が大事なんだよね。
トップ目指して全力で頑張って練習して、本番は力を抜いてサラッとやり遂げるのが本当に強い人。