パンチの利いた二人のおじさん
学生の頃、大方二時間をかけて大学まで通っていた。携帯電話もまだ普及していなかった頃、電車の中ですることと言えば、本を読むか寝るか、ボーっとするか、人間ウォッチング。
私は専ら人間ウォッチング派だった。色々なことがあってオチオチ寝ていられなかった。
ある日、二つ目の電車でのことだ。人は疎らで全員を把握できるほどの人が座っていた。一通り見渡すと、違和感を感じるおじさんに釘付けになった。たぶん乗っていた誰もが釘付けになったと思う。一度は静かに目線を外し、でもやっぱり気になって再び目線を送る…ということを繰り返していたと思う。そのおじさんはカツラだった。今ほど、育毛や増毛、カツラの技術が進歩していなかった頃だ。取ってつけたようにおじさんの頭に乗っかっていたのだ。気になる。非常に気になる。しかも少しズレている。直したい。絶対におかしいから。でも、おじさんは赤の他人。「ズレてますよ。」と善意で教えたところで、機嫌を損ねて逆切れされたら嫌だし。結局、知らぬふりでいた。
すると、もう一人おじさんがふらりと入ってきた。大阪の中心部をグルっと回るその電車には、なかなかパンチの利いた人達が乗ってくる。そのおじさんもしかり。昼間っからベロンベロンに酔っぱらっていた。大体そういう類のおじさんたちはプーンと臭うので、あまり近づきたくはない。けれど、おそらくお気に入りのキャップをカッコよく斜めに被ったそのおじさんに関しては、どこか憎めないものがあった。超がつくほどにご機嫌さんで笑っていたからだ。楽しそうに笑っている人を見ると、こちらも何故か笑ってしまうことがある。おじさんにはその要素があったのだ。
ご機嫌さんのおじさんはご機嫌のまま、たくさんスペースがあるにも関わらず、あの、皆からいらぬ心配をされているおじさんの横にどっかりと座った。皆が二人に釘付けになっていた。選りによって何故そこなのよ。だめよ。そっとしておいてあげてね。とみんなの心の声が聞こえるようだった。
「お。ええのん被ってんな~」
絶対禁句の言葉を投げかけた。電車の扉がプシューと閉まり、次の駅までのショータイムが始まってしまった。
絶対禁句のセリフを吐いているにもかかわらず、屈託のない子供のような素振りのご機嫌さんのおじさん。一方、カンカンに怒っていると思いきや、ハハハと苦笑いをして、うつむくカツラのおじさん。カツラでからかわれたというより、酔っ払いに絡まれた事の方が困ったような様子だった。ご機嫌さんのおじさんは、うつむくおじさんにお構いなしで話しかける。頑張って生きていこう!とか、でもやってられないよな~!とか、カツラとはまったく関係のない話を数分の間、大きな声でずっと話しかけ、うつむいたおじさんはずっと頷いたり、ハハハと笑ったりして、律儀に相槌を打っていた。乗客の皆は固唾を呑んで二人を見守っていたが、最初の禁句からカツラの話をちらりともしないので、大丈夫かしらと各々次の駅までを過ごした。
次の駅へ着くアナウンスが流れ、プラットホームに電車が入った。まもなくドアが開くというその瞬間だった。
ご機嫌さんのおじさんはすくっと立上り、自分のキャップとカツラをひょいッと入れ替えた。「ほなな!」と、すぐさま電車を降りて行ったのだ。
一瞬何が起こったのか理解できずに固まった。漸く事を理解したカツラのおじさんは、「あ”‼」と飛ぶように立ちあがり、慌ててご機嫌さんのおじさんを追いかけて飛び出していった。
電車の扉がプシューと閉まり、ガタンゴトンと電車の走る音が大きく響いていた。残された見ず知らずの乗客は、知り合いのように顔を見合わせて驚き、クスっと笑いあった。その後しばらくポカーンとするしかなかった。あれからあの二人のおじさんがどうなったのかは知らない。電車の中はいつもと変わらない風景に戻った。みんな他人に戻り、それぞれの駅で降りて行った。
あの二人、親友になってればいいのにな…と思いながら次の電車へと乗り継いだ。