水曜日のひだまり 井の中のバー
前回に登場した先生の絵描き友達のKさんとは、個展にお邪魔してから数回ご一緒した。三人での会食は先生と二人での会食とはちょっと違って、先生の素顔がより感じられた。先生はとてもリラックスしていた。
いつだってゆったりとリラックスしているように思うのだが、いつもよりまして大らかだった。少年のように冗談ばかり言って笑っているのを見て、ああ、先生にも自分と同じ若かりし日が確かに存在したんだな…なんて考えた。
じゃれ合う老人に交じって、どうにもそぐわない若い娘っ子が入っていることが自分でも可笑しかった。何とも言えない居心地の良さが温かかった。
ある日の会食の帰り道、いつものように千鳥足の二人は、
「そないしよっ!」
と顔を見合わせて、こちらを振り返った。少年の笑みだった。
「少し、歩くけど…、ええな?」
そう言って向かったのはKさんのアトリエだった。
いかにも怪しげな古びた雑居ビルの隙間に入っていく。1階はすっかりビルに馴染んだ酒屋だった。世界各国のお酒が揃っているらしい。それは店の雰囲気からも分かった。埃っぽい急な階段を上がる。老人二人はお酒のせいか元気に登っていく。登り切った両サイドにドアがあり、右手のドアを開けた。だだっ広い空間にアトリエらしい家具や画材が無造作に置かれ、絵の具の匂いがした。
「ここが、Kさんの密会の場所やな。」
「何言うてんねんな。あ・と・り・え。」
「モデルさんがようけいてるねん。」
と、今度はひそひそと私の耳元で教えてくれた。
「モデルさんって…、そんな画風でしたっけ?」
と漏らした声に、お二人さんはよく分かってるわ、この娘…と笑った。
駅に近いこの場所は、大阪の中心部にそびえたビルの麓。部屋は綺麗な四角ではなくいびつな形をしていて、壁の大方が窓だった。窓からは街の灯りがこぼれるように入り込んでいた。窓から見上げると、高くそびえた駅ビルの灯りの隙間に暗い空が見えていた。
「さ。ここはもうええわ。バーに行こっ。」
「バーですか?」
「あるんや。バーが。となりにな。」
もう一つの左のドアには『井の中の蛙』と書かれた札が下がっていた。1階が酒屋だったこともあり、本当に親しい友人達と飲むためにバーを作ってしまったのだと言う。大人の遊びである。ワイングラスやショットグラスがきれいに並べられたディスプレイ棚や、カウンターらしきもの、ズラリと並べられたボトル、小さな冷蔵庫…。ぼんやりした間接照明の灯りだと細かいところはよく見えなかったが、すべて自分で作ったというバーは、スタイリッシュというよりは老舗の雰囲気満載だった。
「僕はいつもの。」
「よっしゃ。」
勿論、バーテンダーはKさんである。
「そしたら、お嬢には…何かいいの作ったろ。」
「ヒャー。怖いで~。」
本当に怖かった。大先輩に『お嬢』と呼ばれたことも恐れ多かったが、それよりも、酔った老人が作るのだ。どんなものが出てくるか知れなかった。
「だぁいじょうぶやぁ。だいじょぶだいじょぶ。」
全く大丈夫ではなさそうだったが、小さなカクテルグラスを用意して何やら作り始めていた。
「まずはこれを…。」
そう言って青いリキュールをドバドバと入れ、他にもボトルを取っては何か足して…。一応何やら軽量しているらしいが、その手はふるふると震えていた。その間、先生はずっと笑っていた。今まで見たこともないくらいひっくり返って笑っていた。
「あかん。あかん。そんなん飲ませられん。滅茶苦茶や。」
もう、私も笑うしかなかった。滅茶苦茶やん。シャカシャカとカクテルを振っているが、どちらが振られているのか分からないくらいKさんは弾んで飛び跳ねていた。
「もう、ここから出られません。井の中ですから。」
と、言い放ったKさんが私の前に差し出したカクテルは、グリーンのようなブルーのような…とても微妙な色をしていた。
「無理せんとき。」
そう先生は言ってくれはしたが、私は意を決して口をつけた。
「ん?」
「どや。」
「美味しいです。」
あんな滅茶苦茶だったのに、意外に美味しくて驚いて爆笑した。
滅茶苦茶やってるようで、チャンとしてる。チャンとなる範囲で滅茶苦茶やってる。それって、チャンとを知ってるから出来るわけで、知らなきゃ本当に滅茶苦茶になる。
あれから大阪の中心部は瞬く間に整備されて生まれ変わった。『井の中の蛙』はまだあるだろうか。
まさしく、あそこは『井の中』のようだった。自分は一瞬、蛙になった。先生もKさんも好んで蛙になっているようだ。少し違うのは、蛙も私も知らなかったけど、二人は広い空を知っていたはずだった。
『井の中』にいる方が外の色々がよく分かるのか、もう外はウンザリだと思っていたのか。どちらにせよ、二人は『井の中』を楽しみ、おもしろがっていた気がする。
「若いっていいな。」
と二人はよく言った。本当。私、若かったんだよな…あの頃。私の方は若さの価値を理解出来ずにいたし、それより二人のひょうひょうとした感じがとても魅力的だった。二人のスタンスに憧れるが、私はまだチャンと『井の中』を楽しめないと思う。楽しめるはずもない。そもそも、あの頃の先生たちの年まで、まだ後30年ほどあるのだ。30年。まだまだ追いつかないし、年をとればいづれ近づくものだろうと何となく思っていたが、どうやら30年経っても近づけない気がしている。
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