発達障害、「わたし」を生きる

『発達障害、「わたし」を生きる』 2023.8.30 ツカモトカヨ
*キリスト教を信じているクリスチャンで、発達障害の当事者が、
自分の人生についてシェアするために書いている文章です。

はじめまして。私の名前はツカモトカヨです。
広島県で生まれて、15歳の時に、イエスキリストが自分の救い主であると信じ、クリスチャンになりました。
私は去年、33歳の時に、発達障害と診断され、発達障害当事者として、障害者手帳を持って生きることになりました。今日は、そこに至るまでのことを通して、神様がどんなにすばらしい方かお話ししたいと思います。


①幼い頃のこと

わたしは小さい頃から嫌なものがたくさんある子でした。
白いご飯が嫌い。特定の音を嫌がって泣く。幼稚園や学校も嫌いでした。
障害の診断を受けた時の検査で、自分の脳の中に、IQが132の部分と100程度の部分があることを知りました。これはいわゆる凸凹の差が大きい状態で、2Eと呼ばれています。
(2Eとは:「(トゥーイー)」(2e: twice-exceptional:二重に特別)。
2Eの子は、才能を伸ばす面と障害による困難を補う面の両方に、二重に特別な支援を要する。)
日本には、昔も、今もいわゆるギフテッド教育というものが公教育にありません。私と同じような子にとっては、今も学校は苦痛なことが多いようです。私も、こどもからも教師からもいじめを受けた経験があります。

自分がその場に馴染めない、異物のような感覚、
自分を理解し愛してくれる人は誰もいない、という絶望感が10歳頃からありました。
高校生になった時に、今まで自分が人よりできる、と思っていたことが通用しなくなるという体験をし、自分は何も価値がない、生きている意味がないと思うようになりました。

②イエスキリストとの出会い~鬱病、寛解、結婚

そんな時、高校で出会ったクラスメイトが、話の流れで気まずそうに、自分はクリスチャンで、日曜日は教会に行く、と教えてくれました。

「素敵じゃん、わたしも行ってみたい」
なんでそんなことを言ったのか、未だに分かりません。私の言葉を聞いて、友達は教室で踊りながら喜んでくれ、すぐに駅から一緒に1時間も歩いて教会に連れて行ってくれました。

死んでいた私の心に、聖書から世界を見ることを知って光が差しました。
初めて教会に行ってから3か月後、夏のキャンプで福音を聞き、イエス様を自分の救い主として受け入れました。
自分を殺そうとしてきた私の罪を誰よりも悲しんでこられたイエス様は、わたしがイエス様を信じるかどうか分からないのに、私のために十字架にかかって罪を贖い、よみがえってくださったと知り、
私はイエスさまのためになら生きていける、イエスさまのために生きていきたいと思うようになりました。
最初は反対していた両親も、洗礼を受けることも、神学を学ぶために大学に行くことも許してくれました。

なのに、私はその神学校を、重度のうつ病となり、中退することになります。20歳の冬のことでした。
病のきっかけとなった出来事を乗り越えるのに7年近くかかりました。
今から考えると、障害の存在を認めておらず、何のケアもしてこなかったたくさんの傷やひずみが、生きていく力そのものを損なわせていたとも思っています。

療養をし、教会で働かせていただきながら編入した大学を卒業し、私は結婚するまでの4年あまりを、療育のスタッフとして働きました。
(療育:障害の種類の別を問わず、特別な支援を必要とする子どもたちに対して、全領域に渡る支援を行う場。)
ある面でこどもたちに、大切なことを教えていただき続けた4年間でした。そして結婚し、母親となりました。

③障害告知、その後のこと

初めての子育てに必死で向かい合っている中で、我が子の様々な感覚に過敏さがあることに気がついた頃に、保育園をひどく嫌がるようになり、
それをきっかけに、人が集まる場所を拒否するようになりました。
保育園を辞めさせ、24時間わたしがつきっきりでケアをするようになり、子どもは心理士さんに療育を勧められました。
大好きだった教会にさえ行くのを嫌がる姿を見て、私は毎日泣きました。
自分がもっと~していればこうならずに済んだのに。私のせいだ。
自分の子どもが傷ついているのを見るのがこんなに辛いことだと初めて知りました。天のお父様が私にしてくださったことの重みが胸に迫る中で、私は何と祈ればいいのかもわかりませんでした。  

我が子のために何かしたい。何か自分にできることはないのかと考える中、
自分が学校に行けなかった頃、児童相談所の方が私に
「この子は、発達に偏りがあるかもしれないね」と仰っていたことを思い出しました。
子どもに療育を通して自身に向き合わせる前に、まず私が自分自身のことを知ろう、それが子どものことを知る時にも役に立つかもしれない、と思い、病院に行き検査を受けました。

結果、私はADHD(注意欠如多動症)とASD(自閉症スペクトラム障害)を併発した障害があると診断されました。

自分も療育をする支援員として働いていたので、発達障害の特徴はある程度理解していました。
しかし、自分が幼い頃から負ってきた体の辛さ、感覚の過敏さや人との違いが障害から来ていたこと。自分なりに努力して埋めようとしてきた人との差は障害であって、どれだけ努力しても一生埋まらない、治らないとはっきり分かり、診断を受けてしばらく、落ち込みました。

その期間、賛美をすると涙がこぼれました。そのように私を創造された主の願いに思いを向けつつも受け止めきれない思い、子どもたちのこと、これまでのこと、いろんな思いがめぐりました。そんな時でも、賛美をするとそこに主がおられることを確かに感じました。

『わたしはあなたを失敗作として創っていない。あなたはわたしの最高傑作だ。あなたが高価で尊いんだ、わたしがあなたに与えたものの全ては祝福だよ。あなたの使命を生きるために必要なものを、わたしが与えたんだよ。あなたもあなたの家族もわたしが必ず祝福する』
・・・神様がこれまで私に語ってきてくださったメッセージが、これまでとは違う響き方で、私の心の中にくり返し語られているのを感じました。

私は、救われてから今まで賛美してきたように、神さまが私にしてくださったことすべてを感謝し、喜び、ささげて生きていきたい。
そう思うようになってきた頃、イエス様が私にしてほしいのは、生産性を追い求めることではない、と示してくださいました。

④生き方の向きを変える


"しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。" Ⅱコリント12章9~10節

私はこれまでずっと強い人間でありたいと思っていました。
誰にもバカにされないために、小さな頃から命を削って努力をしました。
それは、優秀で価値のある人間だと人に思われたかったからです。
私は人並み以上なんだ、障害者であるわけがない、と心のどこかで思っていた自分の姿を直視した時、自分の中の人を見下す思いに気がつき、
恥ずかしくて、情けなくて、これまで出会ってきた子どもたちや保護者の方に謝りたいと思いました。

わたしは障害者です。
そしてわたしは神の子であり、神のしもべであり、神の友でありたいと願う一人のクリスチャンです。
私にとっては、わたしの中にある障害を自分の弱さとして受け入れることが、本当の意味で神の創造を受け入れることでした。
今、生まれて初めて、やっと深呼吸ができたような気がします。

そして、自分の弱さを人に見つからないようにごまかすのではなく、弱さと向き合い対応するようになりました。弱さと強みは裏表であることを知り、神様が何を強みとして私に与えたのか、自己卑下や間違った謙遜を超えて、まっすぐ理解できるようになってきました。

私は2018年に自分の会社を作って代表になりました。
障害を受け入れるまで、収益を献金すること以外で、この会社を直接神さまのため、教会のために用いたいとは思っていませんでした。
でも、私の1番いいところは、本当にイエス様が好きなこと。何があってもイエス様についていきたい。
それなら私の会社は、イエス様の願いが実現するために使ってもらいたい。
そう思うようになった時、会社に与えられた機械で、みことばをどこにでも目に見える形で持っていけるようにグッズ製作をする、療育をしていた発達障害当事者として、イエス様がしてくださったことを伝える「声」になる、これまで続けてきた賛美や証しを深め、届きやすいかたちにする、自分にできることが少しずつ見えてきました。2023年から、仕事や学びにおいて、取り組みを始めました。

⑤なにを伝えたいのかー「あなたは、高価で尊い」


わたしは社会的な視点で見れば、ひとりの障害者で、誰もが優秀で価値があると認めるようなすごい人ではありません。
でも、そういう人間になりたい、なりたいと自分を殺しかけるほどに努力をした私の本当の願いは、
自分が馴染むことのできる居場所を見つけたい、誰かに私のことを本当に理解し、愛してもらいたいということでした。
私は誰もに認められる優秀なエリートにはなれませんでした。
でも私が本当に願っていた、言葉にできなかった願いを、イエス様は叶えてくださいました。
私の幼い頃の本当の願いは、今のわたしが日々、イエス様と生きている現実そのものです。

今の私の願いは、今動画を見てくださっている方の存在そのものを、イエス様が今愛しておられることをお知らせすることです。
聖書に「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」とあります。私たちは能力によってでも、生まれによってでも、これまでに得たものにでもなく、ただ存在そのものを愛されています。心痛むことですが、今までそのようにあなたは扱われてこなかったかもしれません。今もそうかもしれない、だから自分が愛されているとは到底思えない、感じられない。
私自身がそうでした。そういった方にたくさん出会ってきました。
クリスチャンとしてそんなこと口には出せない、でも心の中の真実がある、という現実があります。

でも決して揺るぐことない、みことばの「事実」は、あなたは生まれる前から、そして今も、これからも、高価で尊い、愛されている存在だということです。
私たちには、他人を変えることはできません。私の障害のように、生まれついて自分の力ではどうすることもできないものもあります。
でも、どんな人がどんな人生を歩んできたのだとしても、神を信じ、神の御言葉を事実と受け入れる信仰によって、自分を高価で尊いことを認め、受け入れることができるとお伝えしたいのです。
わたしの存在の価値は、障害者であってもなくても変わりません。イエス様がわたしのすべてを贖ってくださったことが変わらないからです。

わたしは、日本中、世界中のどこへでも、証しと賛美を届けに行きたい。私の会社で作っているみことばグッズを持って、開かれた場所全部に届けに行きたいと願っています。

初めて教会に行ったあの日、私の友人は、自分の自転車から降りて、私と熱いアスファルトを歩いて、イエス様のところへ連れて行ってくれました。
私もいつかあなたとお会いして、祈りや賛美、交わりを通して、少しでもともに歩ける機会があれば本当に嬉しいです。
ここまで聞いていただいてありがとうございました。

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