アニメにおける性暴力の描写。そこに被害者や経験者への想像力はあるか?
アニメは創作世界。表現の自由も描写を選ぶ自由もある。その場面を描かねば、伝えたいことが伝えられないということもある。
私はアニメが好きだし、子どもたちと一緒観てわいわい話し合うのも好きなので、結構観る。しかし、最近見たこの2つのアニメが頭から離れない。どうしてだろうとずっと考えていた。気づいたのは、性暴力、特にレイプに至る描写が胸の中に重苦しく残っているのだということ。
その場面を少しだけ。
「アンゴルモア元寇合戦記」
鎌倉時代の元寇の戦場が舞台らしい。
元を迎え撃つ日本側に女性兵士がいる。
敗北迫る中、付き従っていた姫を敵の手に落とさぬために手をかけ、自身は敵に突撃する。
「女だ、女だ」とよだれを垂らさんばかりに反撃する元の兵士。
女性兵士は組み伏せられ服をはがされ「くっ!」と言ったところで画面が変わる。
私は全身から力が抜け落ちるような恐怖感で観ていた。
もうひとつ。「ゴブリンスレイヤー」
ドワーフやエルフ、魔法が存在する世界
冒険者ギルドでゴブリン(小鬼)退治の仕事を請け負った若い冒険者4人(男1人、女3人)でゴブリンの巣穴に潜入し退治を試みるも、大失敗。
殺害の描写もなかなかリアルだった。
女性は襲われ服をはがされ連れ去られる。
そのあとのことは想像がつくような連れ去られ方だった
私はぞわぞわするような怒りと吐き気でまいってしまった。一緒に見ていた息子に聞くと、ゴブリンは長生きの人間と交配することで強化を図っているとのこと。そういう設定だったかと納得はした。
とにかく、ドラマでもアニメでも、性暴力が描写されると疲れ果ててしまう。そのせいで最近テレビから遠ざかってはいるのだけれど。
アニメにおける性暴力の描写には2種類あるように思っていて、
・状況の暴力性を裏付け、際立たせるために描かれるもの
・行為自体の暴力性を見せつけるもの
具体的に言うと、アンゴルモアの方は戦場全体の暴力性の裏付けと感じられたけれど、ゴブリンスレイヤーはただゴブリンの恐ろしさを強調したいがための描写と思えた。他の描写でも良かったのではないかとの思いが強い。それがレイプであることの必然性を感じなかった。
恐ろしさや状況の異常性を表すには、他の描写や語りでも裏付けることができる。どうしてわざわざレイプなのか。性暴力なのか。これを観て傷つく人間が多すぎやしないか?それについて、作る側は想像が及んでいるのだろうか。
全国の刑法犯による死傷者数を調べてみた。刑法犯による(犯罪による)死傷者は28957人。10万人あたり、20人ほど。(28年)
これに対して望まない性交などの経験は内閣府の調査で女性の13人に1人、男性の67人に1人。男女合わせたら20人に1人。(30年)ちなみに警察の強制性交等罪の認知件数は1000件あまり。性暴力の告発には暗数が多いことがよくわかる数字の対比。
なにが言いたくてこの数字を持ち出したのかというと、殺人の描写であっても遺族や似た経験があるひとたちを傷つけ恐怖させる可能性がある。経験者の多い性暴力の描写は、もっと広範な暴力性を持つのではないか、と容易に考えられるということ。
そのうえで、その事実を背負って、どうしてもその場面を描かねばならないのか?作る側はもっと問うべきではないか。避けられるものは避けるべきではないか?
それらはちゃんと自問自答なされているのか?
最初に書いたように、表現の自由はあるし、描写の必要性もある時はある。しかし、自問自答が薄い、安易な描写ほど、暴力性が高く心への殺傷力は高いように感じられる。
作る側に、誰かを傷つけても良いという、仕方ないという軽々しい意識はないか?
自問自答の足りない描写、安易に選択された描写は、安易であったということそのものが、被害者や経験者を切りつける。
自問自答の末、なくてはならない性暴力の描写であるならば、番組の最後にテロップで作る側の思いを書くとか、性暴力被害者の支援機関の連絡先を載せるなど、傷を和らげるためにできることはたくさんあるはず。
そういう意味では、アンゴルモアも身勝手だと私は思う。
表現はあとからじわじわ効いてくるものだ。受け取り手は傷ついたことをずっと後になってから気づくことだってある。特にアニメを観ているのは子どもが多い。子どもたちが5年後や10年後に健康な心でいられるように、作り手のおとなたちにできることがたくさんあると思う。
もっとやさしい社会を子どもたちに渡したい。