不登校やひきこもりからの「進歩」とか「解消」とか「脱却」とか「改善」とか言うのは嫌なんだ。
こんな我が家です
我が家のひきこもりっ子が、最近「曜日感覚がないのはどうかだから、ゴミ出し担当してみようかな」と言い出した。ゴミ出しは曜日ごとに種類が決まっているから、それを追うことで曜日感覚を取り戻そうという腹づもりらしい。
曜日感覚という、世間の流れにもう一度乗ってみようという気になったこと、以前は家から出たくないのとひとに見られたくないというのとで、絶対拒否だったゴミ出しを…というのとで、私は感動せんばかりに嬉しかったのだ。
これは、不登校から9年目のひきこもりの子の話。
今年の半ばに、我が家から子どもがひとり、巣立った。一昨年から本格的にバイトを始めてお金を貯め、ひとり暮らしを始めた子。この子は比較的元気で活動的な、不登校開始から8年目の子。
比較的元気だったとはいえ、3人の我が子の中で一番「学校に行っていない」ことを気にする子だった。私が「あなたならあれもできそう、これもできそう」と話すたびに、「あのね、僕は学校に行ってないんだよ」という子だった。
そんな子がバイトを始め、最低時給で働くのは嫌だととある技能資格を取り、その資格で契約社員を勝ち取り、給与アップ。あっという間にお金を貯めて巣立って行った。まだ10代。
3人の最後のひとりの話をすると、この子は高卒認定試験を経ての受験生をしている。「ここまでの人生のネガティブ要素をひっくり返すには、進学」というのがこの子の決断。
そうそう、この最後の子に誘われて、最初にゴミ出しの話をした子が今年高卒認定試験に初挑戦したという話もありました。二十歳過ぎての初挑戦だったけれど、そして、数ヶ月ぶりの外出だったけれど、無事に受験できた。これも私は泣かんばかりに嬉しかった。
こんな最近の変化を逐一報告して喜び合えるひとが、とてもありがたいことに私には何人かいて、そのひとたちに「すごい進歩です!」と話すたびに、嬉しさと誇らしさとは別に、私はなんだかモヤモヤしている。
不登校やひきこもりは「劣った状態」か?
だってだって、「進歩」って「ポジティブな状態になった」という意味で使われがちなとてもポジティブな言葉。でも、これって、「以前はネガティブな状態だった」という意味にならない?
同じく、不登校やひきこもりを「解消」とか、「脱却」とか、「改善」とか表現するのも同じ匂いがする。そこに現れる、親御さんや見守る方々の安堵と喜びは痛いほどわかる。
でも、不登校やひきこもりは「ネガティブな状態」なのか?「劣った状態」なのか?
私はそうは思わない。そもそも、誰かと誰かの人生と比べて優劣をつけるなんてできないし、するべきじゃない。同じく、ひとりの人の人生の別の時期を比べて優劣をつけるのもできることじゃない。
だって、全ての時期や状態が、「今ここに生きている」ために必要な時期や状態だったのだから。今ここに生きていてくれて、ありがとう。私はとても嬉しい。
見えづらい「変化」こそ見つけて大切にしたい
不登校だった子が学校に行けるようになった、ひきこもっていた子が働けるようになった。そんな変化は大きくて、はっきりしていて、見えやすい。ゆえに、周囲のひとは安堵するし、喜ぶ。
では、学校に戻れない、まだ働けない子は喜ばれない存在なのかな?
学校に戻れない、外出できない、働けない子どもたちは、「みんなができることを自分にはできない」それだけで自信を削られ、元気をなくし、生きることすら危機になりがち。
自分は弱い子、ずるい子、悪い子。迷惑をかけている子。役に立てない子。生きていていいのかな。生きていない方がいいんじゃないかな。そんなところまで追い詰められて行きがち。
そうじゃない。そうじゃないということを伝えるために、周りのひとは何ができるか。それは「解消」とか「脱却」とか「改善」とかじゃない、もっと小さな小さな「変化」を見つけて、伝えて、一緒に喜ぶこと。
顔を洗えるようになった。お風呂に入れるようになった。「いただきます」を言うようになった。「ありがとう」って言ったらニコッとしてくれた。今日はリビングでご飯を食べた。
「あ、こんなことができるようになった」と思ったら、「ありがとう」を添えて「嬉しいな」を伝えること。明日また元通りでもいいじゃない。「変化」は「変化」なのだから。
「親バカ」で行こう。
「そんなことで?」「その程度で?」と思ってしまったら、「だって私は嬉しいんだもん」でいいんじゃないかなと思う。「嬉しい」に根拠はいらない。嬉しいものは嬉しいのだ。嬉しさこそが「変化」を見つける羅針盤。
「この子だったらなんとかなる」「きっとこの子は大丈夫」にも理由や根拠はいらないと思っている。理由や根拠は欲しくなったら、適当にくっ付ければいい。
「あの時こんなことができたから」「元々はこんな子だったから」「パートナーの子だから」「私の子だから」なんだっていいと思う。
こんな根拠のない「大丈夫」こそが「親バカ」。不登校やひきこもりの子を抱えて日々を超えていくエネルギー源。だから私も生きていける。生きている私、ありがとう。