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【潜在意識】人生のハンドルを取りもどす

落ち着かない性分なのか。

私は一箇所にずっと留まっていることが出来ないみたいだ。まだ見たことのない新しい世界に出かけたくなることがある。

と言っても、決して飽きっぽいという訳ではない。一つのことをやりだしたら、とことん集中して取り組む粘り強さもある。

それなのに何だろう。今やっている事が上手く行っているのに、とつぜん別のもう一つの道が見えてくるのだ。気がつけば人生の岐路に立っていて、選択を迫られている。


これまでに大きな転機は二度あった。

一回目は二十代のとき、新聞社時代。
仕事が順調だったし、いい先輩や上司に恵まれていた。充分にいい職場だったと言える。会社の看板に守られていたし、何の不足もないはずだったが、自分が温室育ちの花のように思えて、急に世間を見たくなったのだ。
同じ系列会社の別の新聞に移ったのだったが、時代が時代だった。そこは想像していた以上にオジサン社会で、荒波をかぶった。前の職場にはない面白味はあったが。

もう一つの転機は、十五年前、京都から石垣に来たとき。
その時、私に求婚してくれた人がいたが、結婚をとらず、移住を選んだ。
四十歳過ぎの女に巡って来た再婚のチャンスだというのに、何故か。
その人に恋していた訳でも無いし、結婚したいタイミングでも無かった、というのが理由だった。
いま思えば、勿体なかったような気もしないでもない。
その人が善い人だったら、幸せな家庭が手に入っていたかもしれない。
しかも、お金持ち。不動産会社の社長だった。
求婚を受け入れていたら、今ごろは京都で左団扇だったかもしれない。

京都に残るか、移住か。
その時、まさに運命の分かれ道だったと思う。
しかし、その時の私の気持ちは完全に石垣移住の方に傾いていた。
私は、その人ではなくて、石垣島に恋をしていたのだ。

いったい私という人は、何を求めている人なんだろうか。

その時はより魅力的に見える方の道を選んだつもりだった。しかしいま冷静に振り返れば、楽な方の道を捨てて、わざわざ厳しい方の道を選んでいる。

何故だか分からないが、波乱の多い人生。

新卒で入って定年まで勤めあげる公務員みたいな人生は、私には送れない。

私には三つ上の姉がいる。
私はこんな田舎には居られない、自立するんだと、故郷の岡山を鉄砲玉のように出てから帰っていない。

いっぽう姉は、生まれてからこのかた岡山から出たことは無い。
地元の短大を出て地元の人と結婚して、子供二人を育てて、ずっと同じ人たちの中で変わらない生活をしている。
他府県に旅行に行く時も、家族単位で行動して、彼女が自分の意見を言うときの一人称は、「私」ではなくて「私達は」と言ったのには驚いた。
つまり、彼女には「個人」としての自分が無く、自分の意見を言うときも、家族の意見として言うのだ。

私と同じ姉妹だとは思えない。
姉とは仲良し姉妹だった筈なのに、年月がお互いを遠く離れ離れにしたのか。

姉は就職をしたことが一度も無く、高校の時にに出会って初めて恋愛した人と遠距離時代を経て結婚、以来ずっと専業主婦だ。
私から見れば、ずいぶん狭い世界に生きているわけだが、十年前に最後に会った時の彼女は「幸せなんよ」とはちきれんばかりの笑顔で、何の迷いも見られなかった。
姉は小学生の時からの夢「将来はお嫁さん」を最短コースで叶えたわけだ。

温室育ちであろうが、世間知らずのままであろが、幸せに生きて死ぬことは出来て、それ以上なにが必要なのだろう。
姉を見ていて、そう思う。

幸せに生きて行くには、視野を広げすぎないほうがいいのかも知れない。
自分が幸せになるのに、他人の価値観は必要ないからだ。
自分の幸せが何かが分かっている人の方が、結局は強いし、それが本当の自立というものだ。

で、私は何を求めている人なんだろう。

心理の世界では、幸せ恐怖症と言う。親への当てつけ、が根底にあるんだと言う。
「なんでそんなに苦しい考え方をするの?なんでわざわざ苦しい道を選ぶの?」

「幸せになりそうになると、怖くなって回避する。
それは幸せ恐怖症という症状なのよ。
頭では幸せになりたいと思っているけど、潜在意識の奥底では違うことを考えている。
わざと不幸になって、親に復讐しているの。あなた達の育て方が悪いから、って」

私は「親に復讐している」という説とは違う意見だ。
他の人は知らないが、私に限って言えば、「お母さんより幸せになってはいけない」という呪縛があるせいだと思っている。

いずれにせよ、私のこの人生が幸せ恐怖症という症状を呈しているのだとすれば、考えねば。

信じられないかもしれないけど、潜在意識が人生を決めているみたいよ。


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