いつも誰かに愛されている
これは誰にでも言える事では
ないのかもしれないが、
と前置きしておこう。
昨今の衝撃の強すぎるニュース映像は、
できるだけ見ないことにしている。
自分は繊細で感受性のつよいほうだと思うから、
気をつけるようにしている。
繰り返し放映される津波の映像を見ているうちに、
PTSDの症状が出たという話もあって、
それも分かるような気がするからだ。
3・11のときは、
すでに京都から石垣島に移住したあとで、
テレビのない生活をはじめた後だったので、
津波の襲いかかって来る恐怖は
見ずに済んだ。
見なくて良かったのかもしれない。
私は戦争の映像なんかを見ると、
フラッシュバックするようになって、
日常生活もおぼつかなくなることがあった。
だから、いま戦禍のなかにある国の映像も
見ないようにしている。
自分を守るためにも、
情報は何でも取り入れずに
取捨選択したほうがいいと感じている。
繊細な大人もそうだが、
子どもは特にそうなのではないか。
これが当てはまらない人もいるかも知れないから、
人それぞれなんだろうか。
ところで、
煩雑で平凡な日常の繰り返しのなかで、
ふと幸せな思い出が
蘇る瞬間がある。
そのとき、
生き返ったような気がする。
幸福を感じさせてくれるのは、
たいてい、五感の記憶だ。
今朝の新聞を開くと、
はらりと落ちた近所のスーパーのチラシ。
かつおタタキ刺し身用○○○円。
それを見たとき、
急に記憶が巻き戻された。
人生で一番旨かったカツオの味を思い出した。
さいきん書いた、
離島の秘密の記事に触発されたのかもしれない。
あれは新城島の豊年祭のよる。
食べたカツオの刺身は、
薬味もワサビも要らない
採れたて極上の味だった。
醤油を少しつけるだけ。
旨い。
五感の記憶は、
喜びと共に蘇る。
生きている実感を味わえるのは、
身体があればこそ。
身体をもって、ここに生きている、
ということを大事にしたい。
そして、もっと五感をつかって
世界に触れていたい。
SNSがあれば、
世界中のことを知ることができるように
錯覚してしまいがちだけど、
本当のところはどうなんだろう。
SNSが発達したおかげで、
その恩恵は計り知れない。
自分の領域がずうっと遠くまで拡張した感じがする。
しかし、もっと確かなのは、
こんな事ではないか。
豊年祭の夜、
私に食べさせようとカツオをさばいて
刺身にしてくれたあのオジイ、
私を秘密の祭祀に誘ってくれた
新城島の人。
神さまにお供えする奉納金を
私の分まで用意してくれたニイニイ。
身近で私に関わってくれた思いやり深い人たち。
その人たちと過ごした時間。
それらの私の身体を通して知った幸せを
大切にするとしよう。
実はいま、
早めに決着をつけたいトラブルの対策に
一人でもんもんと頭を痛めている。
こんな時は、孤独になって
どこにも幸福を見つけられないような
悲観的な気分になる。
しかし、今日ふと蘇った幸せな記憶は、
私が勝手に一人になっていたのだな、
ということに気づかせてくれた。
人の体温を思い出させてくれた。
私は何でも一人で解決しようとする
よくない癖がある。
困ったときは、助けを求めてもいいんだっけ。
手を差し出してみようかな。
大丈夫。
いつも誰かに愛されている。
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