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ネガティブな経験こそが、後に宝になる。中間報告・村上眞奈美さんのこと(後編)

前編・あらすじ)
村上眞奈美さんは、広島県・生口島(いくちじま)で、柑橘系の農家の4代目で、宿泊業も営む。これまでの人生経験から、何か人の役に立ちたいと、本づくりの相談を受けた。

父の腰痛。広大な畑の後継者問題。頼りなかった夫とのことなど、のしかかる課題。
これらの危機を乗り越えた胆力は、どこで身につけたものだったのか。
眞奈美さんの「原点」について聞いてみた。


後編・ネガティブな経験こそが、後に宝になる

「順ならん」と言われて

今でこそ、「心から接客が好き」と笑顔を見せる眞奈美さんだが、幼少期は、わがままだと思われがちな性格だったという。
もともと好奇心が旺盛。好き嫌いがはっきりしていて、「好き」となったら、世間体など気にかけず、自分の気持に素直にしたがってきた。
それゆえ、

「眞奈美は、順ならんけんの」

よく、そう言われて育った。
「順ならん」は、広島の方言で、言い出したら譲らない、頑固者のこと。

だから、高校卒業後「東京で就職したい」と言ったときも、親はもう止めても聞かないだろう、と半ば諦めていたらしい。

そんな「幼い」性格だった眞奈美さんが、自分の人生の基盤をつくり、人として人格形成できたのは、就職先の「談話室滝沢」での修行のたまものだったという。

田舎は嫌い。芸能人に憧れて東京へ

東京に上京できれば、芸能人になれるかも。
そんな想いを夢見て、高校卒業後、友達につられて応募したのが「談話室滝沢」(滝沢商事株式会社)だった。

「談話室滝沢」は、当時、新宿、池袋など都内で数店舗を構え、400席以上を有した純和風のスペース。店内には滝が流れ、さながらホテルのロビーのような造り。その名の通り、商談やインタビューなど、「談話」のための長時間利用が可能だった。私見だが、現存していたら、インバウンド需要にも応えられたのではないかとも思う。
2005年、常連客に惜しまれながら全店舗閉店したものの、社員の接客姿勢や礼儀作法のレベルの高さには、定評があった。

眞奈美さんは、そこでみっちりと、接客業の基礎を叩き込まれた。そこで身につけた人格や勉強する習慣が基礎となり、その後、人生の課題と向き合う上で、役に立ったという。

「談話室滝沢」は「人格」を育て「接客」を販売する会社

「談話室・滝沢はコーヒーを売っていないのです。(中略)
そうです、“アトモスフィアの販売”をしているのです。」

(談話室滝沢 社内報・創業三十周年記念挨拶 社長 滝沢次郎 より)

「アトモスフィア」とは、身だしなみや言葉遣いなど、社員の「人格」からにじみ出るもので、「滝沢」ならではの接客ポリシーのこと。接客スキルを意味する「ホスピタリティー」と並んで、「滝沢」の人材教育の肝である。社員は全寮制。練馬の寮に住み込む条件で、徹底的に教育を受けた。

眞奈美さんは「滝沢」で、5名ほどしかいない、本部事務所に配属された。

寮生活の朝は早い。6時のラジオ体操に始まり、先輩との3人部屋の掃除。朝食後、走りながら駅に向かい、西新宿にある本部に通勤。最初は、慣れないパンプスの痛みに涙をこらえながら、ひたすら掃除をする。ワンピースかスーツに割烹着をはおり、濡れ雑巾で拭くのだ。営業中の掃除なので、掃除の姿も美しさが求められる。残業も多かった。

さらに、寮に戻れば、お稽古ごとが待っている。池坊の華道教室から先生を招き、直接指導を受けた。オプションで琴か洋裁を習う。眞奈美さんは洋裁を選び、文化服装学院の通信教育を受けた。実技では先生を寮に招き、スーツを作り上げた。3年以上勤務した社員の特権ということで、調理師国家資格の免許まで取得したという。
さすがに寮の費用は給料から天引きされていたものの、教育費はすべて「滝沢」もちだったようだ。

とはいえ、手を抜くことができない真面目な性格の眞奈美さん。ハードな生活のあまり激太りし、寮生活も仕事も、ついていくのに精一杯だったという。

「談話室」のおもてなし精神を引き継ぐ

眞奈美さんは5年ほどで「滝沢」を寿退社した。しかし、退職後も、滝沢社長とは、年賀状のやり取りなどが続いた。民泊を始めるにあたり、「談話室」の名前を使いたい旨を申し出たときも、快諾いただいたという。

私が「談話室村上」っていうのをね、やっぱりやりたいって。
その心根のあるおもてなしをやりたいんですって言って、名前を使いたいって言ったら、
「ああ、眞奈美くんがんばりたまえ」
っていって、許可をいただいて、堂々と談話室名乗らしてもらってて。
だから、辞めてからの方が私多分、「談話室滝沢」精神がちゃんと落とし込まれてる、と自負しています。

滝沢次郎社長は、2022年に亡くなった。93歳だった。
「滝沢」出身者は、今も卒業生の会で定期的に仲間と合うのだという。

「順ならん」と呼ばれて呆れられていた頑固さが、あの厳しい修行を耐えきることにつながった。人の役に立ちたいという心根が、ホスピタリティーと結びついて、今がある。

滝沢社長は、人生哲学を実践していたのだろうと、今なら、その言葉の真意が理解できる。しかし、20歳そこそこのときに高尚な話をされても、咀嚼しきれていなかった。

「これを理解して働いとった日にはもうダントツで、アトモスフィア賞だったんですよ。」

現在、眞奈美さんの本づくりでは、来年の3月発行を目指して、インタビューを続行中。
眞奈美さんの魅力ある人柄や、生きがいのある幸せな生き方を、多くの人に伝えられるのが、今から楽しみである。

筆者(左)と村上眞奈美さん(右)

談話室村上/しまなみ海道/宿https://www.instagram.com/danwashitu.murakami/

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