ポスト家族論 ~古くて新しい生活単位~
安心なマンションに住んでいる。
というのも、セキュリティがしっかりしてるとか、そういう意味ではない。入居中の6部屋のうち、5部屋に友人が住んでいる、ちょっと変わったマンションなのだ。
このマンションを大きな一軒家に見立てるなら、私たち夫婦の部屋はリビング・ダイニング。住人はこの部屋を自由に出入りしている。
外出して帰宅してみると、私の部屋なのに誰かが我が物顔でくつろいでいたり、
「白いご飯あったりする?」
と、まるで実家に帰ってきたかのように白飯をさらっていく人がいたり。
特に約束もしてないけれど、なんとなく人が集まってきてみんなでご飯を食べたり、一緒に仕事をしたり、毎日そんな感じで過ごしている。
これだけでも面白い暮らしだな〜と、我ながら思うのだけど、ことさらに面白いのは私たち夫婦の部屋だ。
不思議な3人暮らし
この部屋には、夫と私、そして、もう1人、友人のD君も住んでいる。ひょんなことから一緒に暮らし始めてもうすぐ2年。約40平米のワンルームというバカみたいな間取りに3人暮らし。
「夫と友達(男)と、3人で住んでるんだよね」と話すと、だいたいびっくりされる。
「えっ、どういうこと?」と。いや、そうだよね。どういうこと?ってなるよね。
誤解をされることもあるのだが、そうではなくて。
住み始めた当初は、いわゆる「居候」だったD君だが、いつの間にか私たち夫婦にとって家族同然の存在になっていた。
夫と私が口論するとD君が間を取り持ってくれる。D君がいないと、夫婦の会話がむしろ減る(!)それぞれの将来について相談し合う。家事の分担で喧嘩する--。
3人でまるで家族のような時間を過ごしながらも、私はこの状態を自分の親には言えずにいた。なんだかものすごいショックを与えてしまいそうだからだ。正直、周りの友達からも、実は引かれてるのでは?とやや不安だった。
そこで、他者に対して、私たちの住み方について筋の通った説明ができるようになりたいと思い、合間を見つけて社会学系の資料を調べ始めてみたら、こんなテキストに出会った。
「家族みたいな存在」は「家族」ではない
ハッとした。まさにそうだ。D君も、このマンションの住人も、社会的には「家族」とは呼べない。それを私は自覚しているからこそ、彼らのことを「家族みたいな存在」と、少しボカした表現で形容するし、「家族」と言い切ってしまうとなんだか重たすぎる気もする。
「本物の家族」と「家族みたいなもの」を自然と分別してしまうのは、なぜなのか?
「本物の家族」って、一体何だろう?
と考えた時に、パッと思い浮かぶのは、やはり「結婚した夫婦とその子ども」だ。おそらく誰もが「家族」と聞いて思い浮かべるのは、母親・父親・子どもの3者セットのイメージだと思う。
これらが揃っていないと何となく「欠けている」ような印象を持ってしまうのも不思議だ。
このように、なぜか「結婚した夫婦とその子ども」を「家族」の標準だと考えてしまう認知のフレームがあるわけだが、社会学者の千田 有紀は家族についてこう述べている。
“しかし、「当たり前」で「自然」にみえることこそ、疑ってみる価値はある”--と、千田は続ける。
ひょっとすると、私たちが「当たり前」に思っている家族の概念は、「当たり前」ではないのかもしれない。
家族は、20世紀のもの?
調べてみると、どうやら私たちの持つ「父・母・子」の家族のイメージは、国民国家の誕生と共につくられた比較的最近のものであることが分かった。
中央政府が国民動態の把握のために国民全員に「姓」を与え、世帯としての様々な管理をするようになったのが、近代家族の始まりだそうだ。
「結婚するのが当たり前」という価値観もせいぜい100年間くらいの歴史しかない。
江戸の男性の生涯未婚率はなんと50%近くもあり、10人に1人は離婚もしていたらしい。結婚は個々の恋愛感情に基づくものではなく、同格の身分の男女を結ぶことで、イエとイエを結ぶためのもだった。
子どもを育てるという役割も、親夫婦だけの役割ではなく、地域ぐるみで子育てをした。
近代以前は、人々が生きる生活の土台は、家族ではなく、共同体にあったのだ。結婚相手の選び方も、子育ても、共同体なくして語れなかった。
しかし、時代とともにパブリックな共同体は解体され、代わりにプライベートな家族が社会の構成単位となっていく。
自由に恋愛ができるようになって良かったね!共同体なんて煩わしいものから解放されて良かったね!という気もするが、社会の再生産に必要な機能が家族に集約されていくことで、また別の問題が生まれてしまう。
家族が背負うもの多すぎ問題
「核家族(一組の夫婦とその子ども)」の概念を提唱したしたG・P・マードックは、核家族には「性」「生殖」「経済」「教育」の4つの機能があると論じた。もうちょっと細分化すると、家族がこれまで担ってきた機能は9つに分かれるらしい。
恋愛をして、性的欲求を満たす相手。生殖をする相手。共に子どもを育て、教育する相手。生計を共にする相手。財産を共に築き、継承する相手。余暇を一緒に過ごし、楽しむ相手。
つまり、近代以降、すべてをたった1人の異性に求めるのが「結婚」というシステムであり、「結婚した夫婦とその子ども」が家族と考えられてきたのである。
そして、育児や介護といったケア労働を家内に担ってもらうことで、稼ぎ頭は市場へ出て稼ぐことに集中できるようになり、そのおかげで国は豊かになったわけだが…冷静に考えると、あまりにも生活のすべてを家族に詰め込みすぎではないだろうか?
この詰め込み型ハードスタイルが機能していたのは、皆結婚が当たり前だったせいぜい100年くらいの期間だと思われる。この100年がむしろ特別だったのであって、結婚して子どもを持ち家族をつくることは決して「当たり前」ではなかったのだ。
この特別な100年が過ぎて、現在では国民全員が結婚している状態は過去のものとなりつつある。2040年には男性の3人に1人が生涯未婚になると言われているし、毎年約20万件のカップルが離婚している。
このように、昔ながらの家族の在り方をキープできなくなってきた現代の私たちは、生活のすべてを家族に担わせる詰め込み型ハードスタイルから、別のスタイルに舵を切り換えはじめた。
すなわち、家族の役割を、資本主義市場に任せるスタイルである。
家族の役割が商品化する時代
資本主義の発達以降、私たちは良くも悪くも市場の上で、これまで家族が抱えてきた役割を商品として売り買いできるようになった。
例えば、毎日の食事は外食で済まそう。介護はサービスの助けを借りよう。子育てはベビーシッターにお願いしよう。すこし心が疲れたら、心理カウンセラーに話を聞いてもらおう。子供が欲しかったら、必ずしもパートナーは必要ない、精子バンクで精子を買おう。
ただし、すべてはもちろん有料である。
市場に生きる私たちは、お金さえあればなんだって手に入る自由を持っている一方で、お金がなければ生活の基盤があっという間に綻んでしまうという不安も抱えている。
面白いことに、この自由度と反比例するように家族の単位は小さくなっている。
サザエさん型の大家族から、ちびまるこちゃん型の二世帯家族、そしてクレヨンしんちゃん型の核家族へ。さらに、共働きの子なし世帯、ひとり親世帯、非婚の単身世帯−−。
稼ぎ手の人数と扶養の人数に着目してみると、サザエさんでは、波平とマスオさんの2人で7人を養っている。ちびまるこちゃんでは、父1人で6人を養っている。クレヨンしんちゃんでは、ひろし1人で4人。ひとり親世帯は1人で2人。そして単身世帯は、1人で1人。
という感じで、1人が働いて養える人数がどんどん減っているのが分かる。
これは、評論家の岡田斗司夫が指摘していることで、我々は自由が増えて豊かになっていると思いきや、実は個別で生活をするようになってから生活コストが上がり、逆に貧しくなっているのではないか、と言われている。
ここまでの流れを整理すると…
私たちはもともと共同体をベースに生活をしていたが、国民国家の誕生と資本主義の発展に従って、共同体は解体されていき、代わりにプライベートな家族を生活の土台にするようになった。私たちが「家族」と聞いて連想するのは、この時代の家族のことだが、これは決して普遍的なものではない。
そして、今日では、共同体が消滅した上に、家族構成も小さくなりつつあり、家事・育児・介護etc…といったこれまで家族が担ってきた重たすぎる役割を私たちは市場にアウトソースしはじめた。これは、自由で気楽な反面、コストがたくさんかかってしまう。
公的サービスで全てを賄えたらいいが、日本はどちらかというと小さな政府だ。シニア世代への社会保障は手厚いが、子育て世代への政府支出はOECD加盟国と比べても最低レベルであり、人口あたりの公務員の数もぶっちぎりで少ない。
というわけで、やはり私たちは市場に頼らざるを得ない。たくさん働いて、生活に不安がないように、自分の分は自分で稼いでいかなくちゃいけない。
…でも、本当に家族の役割を市場に渡していくことが正解なのだろうか?それって果たして幸福なことなのだろうか?
家族のインフレ戦略
ここでやっと、私の住んでいる共同生活マンションの話に戻る(長かった…)。
私たちの暮らし方は、夫婦というプライベートな領域を、友人というひとつ外側の社会にひらくことで、これまで家族が担ってきた役割をみんなでシェアするスタイルだと思う。
つまり、家族の役割を市場に求めるのではなく、血縁や婚姻関係にない人にも求めていくということだ。
実際、家賃や家事負担をシェアすることで生活コストが下がっている。もし子どもがいたら育児もシェアできたらいいね、なんて話している。
この戦略には実は名前もついていて、その名も「家族のインフレ戦略」というらしい。
難しく聞こえるが、要するに、別に結婚してなくても、男女のペアでなくても、同性の恋人同士でも、気の合う仲間同士でも、誰でも自分の選んだ人と生活をして諸々の負担をシェアしたら良くない?そして、それを法的にも認めてあげられるような社会になったらもっと良くない?という話である。
すでに、アメリカ・マサチューセッツ州のサマビル市では、一夫一妻ではない家族のあり方を認める条例が制定されている。
ポリアモリーと聞くと、性愛的なイメージがあるが必ずしもそうではなくて、この条例は「家族として暮らしたい3人以上の人々のための条例」なのだそうだ。
本人たちが、「このグループで協力して生活していきますわ〜」と言うのを、自治体が認めてあげて、ちゃんと法の保護下に置きましょうという取り組みである。「仲良し友達4人組でもOK」らしい。
こうしたポスト家族の在り方は、これまで法的な結婚が難しかったLGBTQ+の人々にとっての新しい選択肢であるだけでなく、シスジェンダーの人々にとっても、暮らしやすい世の中への一歩だと思う。
ここまで調べてみて、解体された共同体を新しい形で構築し直そうとするこのような動きが今後増えてくるのかもしれないと思った。今の自分の住み方も、自分が立ち上げと運営に携わっているコミュニティも、このような大きな流れに自然と乗っかっているような気がする。
アルバイトでも家族は持てますか?
最後に、家族のインフレ戦略を考える上で、大事だな〜と思ったことをシェアしたい。
色々資料を漁っているときに、岡田斗司夫がいいことを言っていた。
「アルバイトでも家族は持てますか?」というYouTube番組の視聴者からの質問に対して、「持てるんじゃない?あらかじめ家族があるところに参加するのもありなんだよ。」「人間っていうのは、弱い者を保護した瞬間に家族になっちゃうんだ。だから大丈夫だよ。」といった主旨の回答をしていたのだ。
つまり、誰であろうと、対象の弱さをケアしたときに、そこには家族の関係性が生まれるというのである。
これはまさに家族のインフレ戦略において重要な態度だと思っていて、お互いの弱さを見せあって、補完できる関係性を作れるかどうかは、家族の分水嶺だろう。
今のところ、我が家では互いの人生に適度に干渉しあい、支え合えている、ような気がしている。まだまだこれからこの暮らしがどうなるのか、実験していきたい。
…というわけで、いろいろと調べてみて、D君やみんなで共同生活をしていることは、何にも不思議なことじゃない!むしろ最先端に近い!と、自信を持って言えるようになった気がする。はぁ〜長かった。めでたしめでたし。
このnoteを書くまでに、「かよちゃんのnote読みたいよ!」「締切つくるよ!」とお尻を叩いて励ましてくれた愛すべき住人のみんなに感謝を込めて。
Photo by Eichi Tano
参考文献
参考図書
考える人編集部・山極寿一「特集 山極寿一さんと考える 家族ってなんだ?」『考える人 2015冬号』(2015)考える人
千田 有紀『日本型近代家族』(2011)勁草書房
牟田 和恵「日本型近代家族の成立と陥穽」『<家族>の社会学 岩波講座現代社会学第19巻』(1996)岩波書店
上野 千鶴子「家族の世紀」『<家族>の社会学 岩波講座現代社会学第19巻』(1996)岩波書店
参考資料
総務省統計局『令和2年国勢調査 人口等基本集計結果 結果の概要』(2021)
内閣府男女共同参画局『結婚と家族をめぐる基礎データ』(2021)
一般社団法人Public Meets Innovation「家族イノベーション〜多様な幸せを支える家族の形」『ミレニアル政策ペーパー Volume 1』(2021)
奥田 太郎「家族という概念を何が支えているのか ―補完性の原理を経由して」『社会と倫理 第30号』(2015)南山大学社会倫理研究所
参考記事
荒川 和久『地方から若者が集まり結婚もできずに生涯を終える。現代の東京と江戸との酷似点』(2021)Yahoo!ニュース
荒川 和久『よく考えればわかる。全員結婚する時代ってかなり異常。』(2019)COMEMO
橋爪 大三郎『アメリカでいま「一夫一妻」ではない「複数婚(ポリアモリー)」が広がるワケ』(2021)講談社ホームページ
Aimu Ishimaru『江戸時代の最先端子育ては全員参加型・体罰厳禁!イクメンが普通だった時代から現地レポ』(2020)小学館