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ゲーテアヌムのカンファレンスに行くということ

私は、一般の教育(文科省カリキュラムの教育とか公教育とか)に、シュタイナー教育を届けることを仕事にしている。

シュタイナー教育の戸口に立ったばかりの人には、あまり怪しい話はしない。怪しい話どころか、「人智学を説明する」ということもほぼしない。そうではなくて、「人智学を体験してもらう」ことにまずは時間を使う。

人智学を体験したあとだから、それを言語化していくとすんなりと腑に落ちる。言語化するときにも、人智学を知っている人にしか通用しないような言葉も使わない。使うときには、具体的に例をあげて噛み砕いて理解してもらってから。人智学の本に書いてある難しい言い回しではなくて、それが私たちの生活、人生、子どもの成長の、具体的にどういうところなのかを感じてもらえるように伝える。

人智学のことを知らない人たちに話すことも多いけれど、私自身はどっぷりとディープな人智学に浸らないと欲求不満にもなる。自分の中でバランスが崩れてくる。

だから、日常的にシュタイナーを読む。シュタイナーどっぷりの人と繋がる機会をつくる。

ゲーテアヌムのカンファレンスに行ったのはこれで3回目。カンファレンスは、教員養成ではない。すでに教師であり、人智学の基礎はある人たち、その中でも、熟練の教師たちとか、熱意のある先生たちが集まる。

教員養成ではないから、教科の指導方法的なことはやらない。シュタイナーの講義録を読むこともしない。そういう理解の基盤があることを前提に行われる、レクチャーやワークショップの数々を次から次へと受けて、人智学にひたる。

教師としての実践力を磨くためではなく、教師としての根幹にある人間理解とか自己教育とか、シュタイナー教育をもう一歩先へ奥深くへ進ませるために1週間人智学に浸る時間だと思う。

人智学のことを、人智学の基盤がある人向けに話しているカンファレンス。それが、日常の教育活動とつながる。これを、人智学を知らないひとたちに、どういう「教育」として届けていくか。話して知識を与えるだけではなく、人生に役立つ人間教育として届けていくか。

「人智学」と「人智学の外の世界」、片方だけだと偏る。両方を行ったりきたりしていないと、その橋渡しができない。


人智学だけのことを考える1週間を過ごした後、人智学愛がめらめらしてしまい、現実世界に戻るのは後ろ髪引かれる感じです。まだまだ人智学どっぷりしたくて、その欲求は強いのですが、現実世界に戻ってきた私は、シュタイナーの言葉を読みながら、小さな行ったり来たりを続けていくとします。


現実世界も、大事です。笑

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