私は「出る杭」じゃない。
私は、私自身が思っているよりも、人と違うことをやっている・・・らしい。
シュタイナー教育業界で、コンピュータなんて論外だったころにオンラインで講座を開いていたり。日本では皆無のシュタイナー教育の実践的な書籍を発行したり。
今、また、新しい取り組みをしている。シュタイナー教育を知らない人にも届けたいので、「シュタイナー教育っぽくないかも?」ということをたくさん発信している。
私は、自分のことを、そんなに出る杭だとも思っていない。いたって平凡で普通の人だと思っている。実際、能力的にも、突出しているような特別な能力があるわけでもない。
でも、「出る杭」らしい。「出る杭」に見えるらしい。
以前、帰国子女が「出ない杭は腐る」という名言を残した。帰国子女って本帰国後、日本社会にフィットするために苦労する子が多い。海外で育ち、どうしても出てしまう杭でありながら、日本でどう生きていくか悩む。そしてその経験が「出ない杭は腐る」という言葉になった。
私はよく「出過ぎた杭は打たれない」と言われる。「かよさんは、出過ぎてるから打たれません。」って。
あ、そうなの?・・・って思う。自分では出過ぎている自覚はまったくない。それどころか、まだまだ出てない、もっと飛び出したい、もっとできるようになりたい、もっと、もっと・・・っていう気持ちの方が強い。
その気持ちと裏腹に、やっぱり、シュタイナー業界で飛び出たり、はみ出しすぎちゃうのもね・・・みたいな、ちょっとまわりの空気を読もうとするところも、いまだにある。
その不安は、はみ出しすぎて、批判されたり、評判が落ちては困る・・・という思いから来る。
仕事のことにしても、プライベートなことにしても、かなりあけすけに書いているので「批判とか、怖くないですか?」って聞かれることもある。
批判は怖い。っていうか、嫌な気持ちになる。傷つくから、できれば避けたい。建設的な批判なら、傷ついても、真摯にうけとめる。でも、心の負担は大きいから避けたい気持ちは強い。こう見えても傷つきやすい。
でも、今まで私に、非難とか批判とかの声が飛んできたことはない。陰ではいろいろと言われているのだろうけど、私に面と向かって批判してきた人はいない。建設的で善意に満ちた意見はくるけれど。
やっぱり私は「出過ぎた杭」で「打たれない」のか?
つらつら書いているけれど、「出ない杭は腐るから出ましょう」とか「出過ぎれば打たれないから出過ぎましょう」なんて言う気は全くない。
出なくてもいいし、ちょっと出ててもいい、出過ぎててもいい。自分の心地いい杭になればいい。
自分の好きな杭になりましょう。と言いたい。で、自分の好きな杭って?
自分な好きな杭、自分らしい在り方の杭は、みんな一緒の、横並びで、おんなじ高さで、全てが真っ直ぐに立っている杭じゃないと思う。あっちこっち向いてて、高さも違ってるはず。色も形も違ってる。同じ杭なんてひとつもないはず。
みんなが違うのに、みんなが同じふりをするから、一緒に合わせることになって、自分らしさを出すことができなくなる。一緒に合わせないひと、合わせられないひとは、叩かれたり打たれたり。
バラバラでいいじゃないか。
バラバラだからいいじゃないか。
バラバラの人たちが集まるから鮮やかになるんじゃないか。
そもそも、人を「杭」と比喩することがおかしいんじゃないか。杭はそろっているからそのお役目が果たせる。人はそんなお役目の杭になりたいのか。人を杭と例えてしまうこと自体がおかしい。
私は「出過ぎた杭」じゃない。
そもそも「杭」なんかじゃなーーーい。
あなたも杭じゃないから。
あなたらしくしていていい。
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