学校とは、学びとは
オンタリオ州では3月中旬からの春休みから閉校になり、
4月からオンラインラーニングが始まり学校は再開されないまま、7月から夏休みに入った。
このオンラインラーニング、学校や学年、先生によって方法は様々で、
2年生の長男は、Google Classroomを使って課題が送られてきて提出するという形式だったけれど、
私が日本語を教えている6年生の生徒さんは、毎朝9時にZoomで授業があったらしい。
それでも毎日出席しているのは20人中10人ほど。
9月まで学校が再開されないと発表があった次の日からは、
2-3人しか参加していなかったらしい。
6月終わりに連絡をとった長男の友達のお母さんも、
もうとっくに学校の課題はあきらめてやっていない!と言っていた。
世論を募集するラジオでも、
自宅勤務しているのに子どものオンラインラーニングまで手が回らない、とか、
子どもに勉強を教えるのは先生の仕事だから私はしない、とか、
子どもの教育に参加していないことを堂々と宣言する人が多くてびっくりした。
10年前にオーストラリアの高校で教員をしていたときも、
学期中に家族で休暇をとって2-3週間学校を欠席する生徒もめずらしくなかった。
今、子どもらの友達の話を聞いていても、
寒いカナダの冬を抜け出して、温暖なフロリダやメキシコ、キューバ、カリブ海の島で過ごすために1か月くらい学校に来ない子どももいるらしい。
義務教育とはいえ、
学校に出席することはあくまでも選択肢のひとつなのだ。
皆勤賞なる賞があったり、
不登校は「問題」となってしまう日本人のマインドとは大きく異なっている。
学校の勉強は、子どもとはいえ、ひとりの人生に起こることのほんの一部なのだ、という、私には新しい価値観。
しかし学校に通う年齢の子どもをもつ親となりオンラインラーニングを経験した今、
あらためて、なぜ学校へ行くのか、なぜ学ぶのか、を考えている。
オンラインラーニングが始まったころは、
先生の指示通りに課題をこなしていく、完全に受け身の姿勢で取り組んでいた。
しかしどんなにがんばっても、工夫をこらしても、
先生からのコメントは、Good job! やら、Excellent!など、こっちが拍子抜けしてしまうようなシンプルなものばかり。
そこで私は気づいたのだ。
先生が何とコメントしようが、私と長男には関係がないことだ。
一番大切なのは、長男が、課題をこなすことによって、作文の練習になったり、算数の問題を考える時間をもったり、動物について新しい知識を得たり、
それが一番大切なことなのだ。長男が、学んでいることが。
9月からの新年度も、
通常どおり学校を再開するか、分散登校にするか、オンラインラーニングを継続するか、はたまた登校とオンラインラーニングを両立させるかは、
広大なオンタリオ州のこと、
地域が決めていいことになり、いまだ、はっきりした方針の発表はない。
学校の存在価値や意義が変化しそうな時代に直面して、
「学びは学校で与えられるもの」という当たり前は崩れていくかもしれない。
学びは、教育は、こちらから取りにいくもの、学びたいから学ぶ。学びたい人が、学ぶ。
ということになっていったら。
学びの基礎を作っている、小さな子どもをもつ親は、
学校を上手に利用して、学校で提供される学びを取り入れつつ、
子どもに人生を生きていくうえで学んでほしいことは何か、という問いに向き合って、
答えと方法を探していく必要がある、と、覚悟を決めた。
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