ションベン少女

みなさんはションベン小僧をご存知だろうか。あのお腹がぽっこりした、クルクルの癖っ毛の男の子が噴水とかでチョロチョロションベンしているように見える彫刻のことである。
あのパロディで、ションベン少女というものがある。その少女は座りションをしているのだが、センター分けに加え2つ縛りをしているのでかなり芋臭く、ションベン小僧のようなある種のファンシーな可愛らしさはあまりない。生々しくて若干不気味ですらある。何ウケを狙ったのかよくわからないが、そもそも元ネタのションベン小僧自体が下等のユーモアから発想されてる時点で終わっていると思う。
というわけで男女問わず子どもは野ションをするものなのだが、上の銅像について述べたのは「男女問わず子どもは野ションをするものである」という現象の真実味を少しでも感じてほしいと思ったからであまり本文には関係がない。気になった人は自分で調べてみてほしい。

私は小学校に入るまで団地に住んでいた。家族が多かったので両親がお金を貯めていたのだと思う。だから周りには小さい子どもが多く、学年等の境なく遊んでいた気がする。私はきょうだいの友人宅に無断で行き、子ども1人でアンパンマンのビデオを見せてもらったことがある。その後迎えにきた母親と友人のご両親の前で旦那さんに「どうして髪の毛がないの?」と聞いていた。場の空気が完全に凍った。無邪気さは残酷である。とはいえ幼かったし子どもも多かったので比較的おおらかに子どもの成長を見守ってくださる大人が多かった気がする。だからこういった交流も日常茶飯事であった。お子さんがいらっしゃらないお宅にお邪魔して大勢でかまっていただくことも多かった。中にはおしゃまな子もいて、「御手洗婦人」などと読んでご婦人を喜ばせていることもあった。おおらかな団地だったと思う。
小さな砂場や割とスペースに余裕のある駐車場もあったため、外でもよく遊んだ。木に登ったり、自転車に乗りローラースケートをしていた。子どもというのは下品なので上階の階段の踊り場からツバを垂らして誰に当たるかなどの不衛生な遊びもした。そんなことすら許されるほど、私の人生の中でも比較的平和で安心した日々を送っていた時期だった。

この頃はきょうだいもまだまだ幼かったこともあり、毎年恒例の行事のようなものがあった。カブトムシの飼育である。正確に言えば行事というかルーティンワークである(例によって父の形式上の家族サービスである)。父は子どもは夏にはカブトムシを飼うべきと思っていたようで、毎年きょうだいを伴って幼虫を近くのダイエーに買いに行っていた(時代を感じてほしい)。私はウニョウニョ動く幼虫から、蛹になってカブトムシになっていく様子を面白く感じていたと思う。どういう原理なのだろうとか、ごはんはどうやって食べているんだろうとか、昆虫ケースを眺めては想像していた。この家族サービスはなんとか功を奏していたようで、きょうだい達も割合楽しみにしていたと思う。「今年は羽化した場所が悪かったからツノが曲がってしまったね」「ゼリー変えなきゃ!」「今年はメスかー、そういう年もあるよね」と言った感じで毎年の個体の変化を楽しんでいた。
毎年の個体差を楽しむということは、毎年個体が変わっているということである。カブトムシの平均寿命は幼虫の頃を含めて一年で、夏の終わりには琴切れてしまう。小さかった私はそのことがよくわかっていなかったが、毎年のイベントを重ねていくと段々と愛着対象の喪失に悲しみを覚えるようになった。

ペットが死んだらどうするのか、今は多くの選択肢があると思うが当時はほとんどがどこかしらに埋め、お墓とするということになっていたと思う。私もそうしていた。
しかし、冒頭に書いたように団地住まいなので、当然庭はなかった。なので仕方なく公共のスペースである砂場のはじ、小さな木を墓標にして、小さな小さなカブトムシを埋めた。幼かった私はこれでカブトムシは天国に行けたかしら、天国で元気にしていてね、とひっそり、毎日木の前で手を合わせていた。

秋口の頃だったと思う。まだ残る暑さが私にカブトムシへの未練を残した。私の墓参りは毎日続いていた。
当時人にそんなことをいうのは恥ずかしいことだと思って、毎日毎日、1人で行っていた。埋めたのは私ときょうだいだったので、お墓と知っている人は少なかったと思う。

だからあんな悲劇が起こったのだ。

その日も相変わらずカブトムシの墓参りに行った。すると砂場に女の子がいた。気のいいおばさまを先述の通り「御手洗婦人」と上品に読んでいた、色素が薄くて目がぱっちりした、可愛い女の子である。お兄ちゃんがいて、可愛がられていて、私より歳はいくつか下だったと思う。Mちゃんである。墓標にした木の前に、下を見つめながら直立している。

Mちゃんは上記の特徴からわかるように随分美少女だった。だから遠くから見ても「ああ、Mちゃんだ」と分かるのだが、それは人間が顔を1番最初に見るからかもしれない。
私はMちゃんが何をしているのかはじめ理解できなかった。もしかして、理解したくなくて脳が拒否反応を起こしていたのかもしれない。

Mちゃんは立ったまま野ションをしていたのだ。しかも全くの偶然だが、ちょうどカブトムシを埋めた場所を的にしていた。

「冒涜!!!!!!」当時の私の衝撃を言葉にするならこれである。やはり無邪気さは残酷なのである。大体女児が立ちションしないでくれ。危ないし、せめてセオリー通りに座りションをしてほしい。私の大切なカブトムシが埋まっている場所はオシッコでビショジビショになっていた。ほんまもんの美少女のオシッコでビショビショである。Mちゃん、上の口は上品なくせに下の口は限りなく下品である。大体団地内なのだからションくらい家に帰ってすればいいのになぜ外でするのだろうか。また余談で推測だがMちゃんはお兄ちゃんの影響で立ちションが野ションのスタンダードだと思っていたのかもしれない。そんなことは今はどうでもいい。Mちゃんが去って行った後、限りなく飽和状態までションを吸った砂は一向に乾く気配がなく、私の中に衝撃と無力さを残した。「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」の逆である。「もう恋なんてしないよ絶対」である。カブトムシの墓なんて二度と作るものか。私の涙を吸い込む余地は砂場には残っていなかった。Mちゃんの残したアンモニア臭だけがそこに立ち込めていた。

半年後、私は父の転勤に合わせて引っ越しをすることになり、カブトムシの幼虫を売っているダイエーが近場になかったため、このルーティンは終わりを告げた。

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