見出し画像

【短編小説】「浮遊少年」

〘 あらすじ 〙
 東京に住む少年とその姉は、両親の代わりに育ててくれた祖父母の遺言に従って、祖父が結婚する前に使っていた別荘を、夏の間だけ使う事になった。
 少年はある日、別荘の近くにある湖へ、夕暮れ時に遊びに行った。そこで、湖の上を歩く「浮遊」少年に出会う。少年は湖に通い、自分とよく似ている浮遊少年を、何とか湖から連れ出してあげたいと考え始める。
 少年の姉は、何かに強く惹かれ始める弟を心配する。今まで従順だった弟が、湖に行き始めるようになってから嘘をつくようになったり、自分に反抗したりするのを見て、怖くなる。
 不安に駆られた姉は、強引に東京へ帰ると宣言するが、少年は我慢できずに湖へ行ってしまう。

〘 本編 〙

 一人の小柄な少年と、十も年の離れた少年の姉が乗った、古い型の鈍行列車は、ちょうど正午に駅に着いた。降りたのは少年と姉の二人だけだった。
 白髪の車掌が旗を挙げ、電車が行ってしまうと、少年は一つ大きな伸びをした。
 姉の纏う白いロングワンピースの裾が風にはためく。その顔にはどこか憂いが含まれている。
「疲れたでしよう。」
「そんなことないよ、平気。ちょっと待ってて、駅の人に場所を聞いて来る。」
 少年は無邪気に笑い、小屋のように小さな駅舎の中へ姿を消した。
 少しして、少年は小さな紙切れを一枚持って駅舎の中から戻って来た。その頬は微かに上気している。
「ちょっと此処から歩くんだって。大丈夫?姉さん。」
「ええ、大丈夫よ。行きましようか。」
 柔らかく微笑み、姉は麦藁帽子を目深にかぶった。
「近くに湖が在るんだって。駅にいた人は、皆あの地名を知らなくて、ほら、旗を振っていたおじいちゃんいたでしょ、あの人だけ場所を知っていたんだ。」
 半ズボンから伸びる細い足と、白いシャツの腕に、夏の強い日差しが眩しく降り注いでいる。「姉さん、」
 少年は、荷物の一つから白いレースの日傘を取って渡した。
「有り難う。荷物持てるわ、御免なさいね。」
「いいよ、こんなの重くないから。」
 顔を赤くして言う弟に、姉は優しく微笑みかけた。日傘が、木洩れ日のように開いた。
 歩き出そうとした背後から、二人を呼び止める声がした。
 振り返ると、白髪の、旗を振っていた車掌だった。車掌は二人を日陰に在るベンチへと誘った
「これを渡すのを忘れていたよ。頼まれていたんだ、君のお爺さんは私の同級生でね。」
 六十歳を少し過ぎたくらいに見える車掌は、額の汗を拭いながら言った。
「悪いね、これだ。」
 車掌の大きな手から、少年の華奢な手へと銀色の小さな鍵が渡された。
 蝉の声が、緑の木々の間を埋めるように聞こえてくる。
「いつか、あの屋敷の場所を聞かれたら渡してくれってな。もう随分前の話だが・・・。困ったことがあったら言っておくれ。この辺りは都会と違って、道も整備されとらんからな。」
「そうだったんですか・・・お手数をおかけいたしました。」
 姉が頭を下げると、車掌は自分の住所を書いた紙を姉に渡した。
「少しにぎわっている通りへは、屋敷へ行く途中に在るバス停から、石榴通り商店街で降りればすぐだから。」
「わざわざ有り難う御座います。」
 姉が丁寧に礼を述べると、駅長は胸のつかえが取れたように微笑んだ。
 乾いた黄土色の地面を、時々暑い風が撫でていく。
「君は・・・幾つになるのかね。」
「六月で十歳になりました。」
「そうかい、私にも生きていれば君と同じくらいの孫がいてね・・・それじゃ、暑いから気をつけるんだよ。」
 姉と少年は車掌に軽く会釈をし、駅を後にした。
 砂埃が舞う、どこまでも続くような道に、逃げ水がちらついている。
「ここがバス停だね。瑠璃の森入り口駅。」
 バス停には、人の気配すらなかった。
 舗装されていない道の両側には、深い森。長さ太さが異なる木立と、小動物の駆け抜ける足音。梢が微かに揺れ、鳥の飛び立つ音がする。
 土が、少年の靴の裏で軽やかな音を立てた。木々が密集し、日の当たらない道に差し掛かると、少しずつ道はその他の地面と一体化してゆく。ひんやりとした空気が少年の首筋を撫でた。
「姉さん、」
 少年が、目を輝かせ指差す方向には、陽光に照らされて金粉を振り掛けたように光る、小さな湖が在った。
 森の開けた場所に在り、少年が五分も歩けば一周出来てしまいそうな、小さな湖だった。
「冷たいよ。」
 少年はシャツを乱暴にめくりあげ、手を湖の中に差し入れた。
「姉さんも触ってみて。」
 少し離れた場所から少年を見つめる姉を手招きした。
 姉は膝をつき、手を水に浸した。白いその手がするりと水の中へ入る時、森が一斉に溜め息をついたかのように思われた。
「深いのかな。」
「深いのよ、きっと。ほら、もう行きましよう。」
 少年は姉に差し出されたハンカチで手をぬぐうと、また歩き出した。
 湖からそう遠くない所にその屋敷は在った。木造の平屋作りで、長い廊下と広い庭が在った。少年の祖父が二十代の頃に建てたというのだから、いくら手入れをしているとはいっても相当古いのは確かだ。しかし目立った損傷も無く、がっしりとした佇まいを保っている。
 銀色の鍵で、玄関の引き戸を開け中に入ると、親戚の家に行くと必ず匂う、独特の懐かしい香りが少年の鼻をくすぐった。家具も年代物だが状態の良いものばかりだった。
「初めて来たのに、懐かしい気分がする。」
「御爺様が長年住んでらしたからじゃないかしら。荷物を部屋に置いたら、近くを見てきたら。私は少し掃除をするから。」
「僕も手伝う。」
「探検したいって顔に書いてあるわよ。」
 姉が箒を出しながら、振り返って少年を見た。少年はもじもじと下を向いた。
「じゃあ、夜ご飯の買出しに行ってもらうから、夕方までには帰ってきて。」
「行ってきます。」
 今となっては少年のたった一人の肉親である姉は、少年にとって世界の全てだった。
 少年は夏の空気の中へ飛び込んでゆく。背後からは蝉時雨が降ってくる。木立を抜け、さっき見た湖へと少年は駆けた。いつの間にか、太陽は頂上を過ぎていた。
 湖が見えると、少年は走ることを止め、うかがうようにして湖に近づいた。何故かは解らないが、湖は、触れてはいけないもののような、神聖な気配に満ちていた。
 少年は、雲の形や風の流れで色を変える湖に見入った。硝子のように、其の表面は何もかもを写した。
 どれだけ湖の前で立ち尽くしていただろうか。気づいた時には日は傾きかけ、湖は金箔の混じったオレンジ色に染まっていた。
 帰らなくちゃ、と少年が思ったその時だった。突然鳴り続いていた蝉の声が止んだ。風が流れを止めた。雲が立ち止まった。虫の声も鳥の声も消えた。木々の囁きさえも、息をひそめたように静まり返った。
 少年が辺りを見渡すと、湖の上で何かが揺れるのが見えた。少年は目を凝らした。そして小さく声をあげた。湖の上に誰か居るのだ。湖の上を、地面を歩くのと同じように歩いているのだ。
 少年は、自分が夢を見ているのだと思った。そして何度も自分にそれを問いかけた。ただ、この場から早く離れなさいと、警告する声だけが返ってきた。
 湖の上の人影は、少年と同じような背格好をしていた。夕闇にまぎれてゆらゆらと佇んでいる。かろうじて男だとわかる、こざっぱりとした髪形。白い襟付きのシャツに、紺の半ズボン。
 人影はゆっくりと顔を上げ、少年の方を向いた。
「あ、」
 少年の口から言葉が漏れた。それと同時に、少年は駆け出していた。無我夢中だった。頭の中は真っ白なまま、ただ逃げた。
 気は動転していたものの、かろうじて家に辿り着くことは出来た。気持ちの悪い汗で、少年の着ているシャツはびっしょりと濡れていた。
「ただいま。」
 少年の声を聞いて、すぐに家の奥から姉が出てきた。
「遅いじゃないの。もう夜よ。まだこの辺りに不案内なんだから、遠くへ行っては駄目。心配したじゃない。」
「御免なさい。」
 少年がうなだれると、姉が困ったように微笑んだ。
「今、車掌さんの家へ行こうと思っていたところよ。もう頭をあげて。御飯が出来ているから食べましょう。」
 少年は力無く頷いた。
「姉さん、買い物は」
「もう、行ってきたわ。」
 姉はマリア様のような笑顔で言った。
「此処からバスで十五分くらいだったの。」
 家の中は、来た時よりもずっと過ごし易くなっていた。家具を覆っていた布は取り払われ、橙の明かりが、木目を優しく照らしている。
「野菜が凄く安かったのよ。店の人も皆親切だったわ。」
 姉は、昼間よりもいくらか元気を取り戻したようだった。体のあまり丈夫でない姉を気遣わなくてはいけないのは自分なのにと、少年は自分の軽率さを恥じた。
「どこまで行って来たの。」
 夕食のそうめんを食べながら姉は言った。
「湖、」
 そう言った途端、少年の脳裏にまた、今日の不可思議な出来事が浮かび上がった。
「どうだったの。」
「うん、」
 少年は口ごもった。
「凄く綺麗だったよ。」
「だったらどうしてそんな怖い顔しているの。」
 姉の視線が自分に向けられていることを知って、少年は必要以上に食べる速度を早くした。
「そんなことないよ、それより明日は何をするの。」
「言いたくないならいいわ。明日は・・・そうね、荒れ放題の庭を何とかしましよう。」
 そして二人の食事は再開された。少年の耳に夏虫の声が戻ってくる。
「手伝ってくれるかしら。」
 少年は、安心したように大きく頷いた。どうしても、たった一人の姉にさえあの湖で見たことは言ってはいけない気がした。
 濃密な夜が降りてくる。夏草を揺らす風もない。今夜も熱帯夜になりそうだ。

 ピルルルルゥ ピルルルルゥ
 胸の赤い鳥が鳴く。
「あの声はヒタキだよ、姉さん。」
「よく知ってるのね。」
 姉が、伸びすぎた葉を切り落とす手を休めて言った。
「どこから声がするのかしらね。」
「ヒタキは高い所が好きなんだ。」
 掘り返した地面からは、濃い土のむせ返るような匂いがした。少年は楽しそうに雑草を抜きながら言った。
「じゃあ、昨日の夜に大きい声で鳴いていた鳥の名前は知っている?ギョンギョンって鳴いていた。」
 姉は、ハンカチで額を抑えながら首を振った。強い日差しが、少年の細い腕を照りつけている。
「オオヨシキリだと思うんだ。メスを呼んでいるんだよ。」
「オオヨシキリ。」
 姉はもう一度その鳥の名前を口ずさみ、思い出したように微笑んだ。 
「知っているの。」
 鳥や虫の名前を全く知らない姉が、知っている素振りを見せたことに少年は驚いた。

「覚えてないでしようけど、あなたは小さい時、全く喋らなかったのよ。そしたら御爺様が、オオヨシキリを焼いて食べさせろって言い出したのよ。」
 少年は、始めて聞いたと笑った。
「その鳥を食べると、すぐに言葉を発するからって。家中で止めたわよ。鳥に呪われてもっと喋らなくなるわって。」
 嘴が薄緑色の鳥が、イヴーイヴーと近くで鳴いた。少年は鳥の姿を探した。
「結局食べなくても話し始めたんだ。」
 姉は頷き、お茶にしましようか、と立ち上がった。
「ヨシゴイが近くにいるはずなんだけどな。」
「湖で巣を作っているのよ。」
 鳥の巣・・・もしかしたら昨日の人影は、大きな鳥か何かだったのかもしれない。それを人と間違えてしまったんだ。少年は無理矢理にそう思い込もうとしたが、胸のわだかまりを拭い去ることは出来なかった。
「冷茶にする?それとも茉莉花茶がいいかしら。」
 台所から姉の声が聞こえる。麦茶がいい、と答えて少年は台所に向かった。
「昨日作っておいたの。」
 そう言って、姉は薄黄緑のゼリーを、涼しげな硝子の丸い器に入れて少年の前に置いた。
「手は洗ったの。」
 少年は頷いて差し出された器を受け取った。「この家、御爺様が一人で使っていたの。」
「ええ、ご結婚なさる前に住んでいたそうよ。」
 其れにしては広い家だと、少年は感じた。広間、台所、風呂場、書斎に書庫、その他に部屋が六つもあって、一人で住むには広すぎる。
「こんな広い所に一人で居たんじゃ、寂しいだろうな。不便だし。」
「東京に比べたらそうかもしれないわね。時代が止まってしまったような所だものね。」
「薄暗いし、冬は寒そう。」  
 汗はすでに引いて、少年は夢中でメロン味のゼリーを口に運んだ。裸足の足に、風が触れてゆく。簾がカタカタと音を立てた。
「午後からは遊んできたら。庭の続きは明日にしましよう。」
「買い物はないの。」
「昨日沢山買っておいたから、今日は良いのよ。」
 姉が、食べ終わった食器を片付ける為に立ち上がった。
「姉さんも行こう。」
 少年が遠慮がちに言った。
「少し疲れたから、午後からは休むわ。」
 ふわりとスカートの裾を翻し、姉は台所へ消えた。少年は、がっかりしたような、安心したような妙な気分で椅子から立ち上がった。そして麦藁帽子を目深にかぶった。
「行ってきます。」
「暗くなる前には帰ってくるのよ。」
 奥の部屋から聞こえる姉の声に、少年は大きく返事をして玄関を飛び出した。途端に蝉の大合唱が少年を迎える。太陽はまだ真上に在った。
 少年は時々立ち止まって、ヤマボウシやクマガイソウ、スイカズラの花を見つけて観察したり、木の洞にいるカブトムシを突っついてみたりしながら、湖へ向かった。
 どうしても確かめたかった。
 湖は昨日とは雰囲気を異にしていた。湖面は銀の光を受けて波立ち、周りの木々が風に揺れ、湖面に突き出た古木にはバンという鳥が止まり、クルルルゥ、ククルルゥと鳴いていた。湖を縁取る背の高い草に風が道を作っていく。高い空では入道雲が場所取り争いを繰り広げていた。
 少年はゆっくりと湖の周りを歩いた。木々に囲まれている所為で斑模様の影が出来、日に当たっている所とは比べ物にならない程涼しい。
 湿った土に足元をとられないように注意して進んだ。しかし靴には幾つもの泥の染みがついてしまった。
 湖は風の向きや鳥の羽ばたきによって流れを変え、色を変えた。
 昨日とはまるっきり違う、と少年は呟いた。神秘的ではあるが、引きずり込まれてしまうような、恐怖にも似た神聖さが感じられない。
 まだ、日は傾いていない。少年は拍子抜けして早々に湖を後にした。何も起こらなかった。でもあの湖にはきっと何かあると感じた。
 少年は家に帰る途中、木々の間を彷徨うように飛ぶ、黒アゲハを見た。自分の体の色に相応して暗い場所を好むのだと、図鑑に書いてあったことを思い出した。
 少年が手を伸ばすと、蝶はその手をすり抜け、木々の暗がりへ消えた。その途端風が森を駆け抜け、木々が一斉にざわめいた。少年は足を速めた。
「ただいま、」
「今日は早いのね。」
 麻色の、丈の長いサマードレスに白いエプロンをつけた姉が、台所から出てきた。
「風が強くなってきたね。」
「雨が降るかもしれないから、雨戸を閉めておいてくれるかしら。」
 少年は屋敷中の戸を締めてまわった。すると急に家の中が暗くなり、息苦しくなった。木戸を風が乱暴に叩いた。
「ラジオでは、夜遅くに台風が接近するらしいって。」
 姉が料理の合間に少年に言った。
「戸を閉めると蒸し暑いね。」
「そうね・・・。」
 息苦しさに、少年は大きく深呼吸をした。
「台風、それてくれれば良いのだけど。」 
 姉は心配そうに言い、ラジオのボリュームを上げた。
「せっかく庭にササバギンランが咲いていたのに。」
「あの、白いやつ?」
 風が強くなったことを、少年は木の揺れる音で感じ取った。硝子戸が割れんばかりに鳴っている。
「珍しい花なのに。」
 姉は残念そうに言い、少年に食事を促した。
 ラジオは途切れ途切れに気象情報と洋楽を繰り返している。
 ・・・このまま進むと上陸の恐れもあり・・・中型で強い台風三号は・・・風と雨に十分御注意下さい・・・
「壊れない?」
「大丈夫よ。ご飯、食欲無いのなら残してもいいわよ。果物あるけど食べる?」
 少年は小さく頷いた。
 姉は微笑んで、早く台風が過ぎると良いわね、と言った。
「今年は海水浴に行ってないね。」
 少年は天井を見上げて呟いた。姉が、切った枇杷を器に盛って運んできた。
「美味しそうでしよう。・・・ねえ、さっき見たけど、運動靴、どろどろじゃない。また湖に行っていたの。」
 姉が思い出したように言った。 
「明日洗うよ。」
 少年は、俯いてフォークを取った。
「駄目とは言わないけれど・・・気をつけてね。浅そうに見える所も案外深いし、足を滑らせるといけないから。」
 解った、と少年は言い、姉の手を見つめた。細い指だ。
「この前車掌さんにね、商店街で偶然会ってこの枇杷をいただいたのよ。」
 少年は、枇杷の木は植えた人が死なないと実がならないという言い伝えを、随分前に祖父から聞いたことを思い出していた。
「車掌さんって奥さん居るのかな。」
「さあ、居るんじゃないかしら。孫が、ってこの前言っていたじゃない。」
 そんなことを話していただろうかと、少年は記憶の糸を手繰り寄せようとしたが、外の暴風雨が一層強くなったことに気をとられ、すぐに忘れてしまった。

 次の日、少年は朝早く湖へ向かった。台風の所為でろくに眠れなかったこともあり、しかめっ面のまま歩いた。道のあちこちに、どこから飛んできたのかわからない、バケツや長靴が散乱していた。大きな水溜りには早朝の弱い太陽が閉じ込められていた。
 少年は、靴が汚れないようなるべく水溜りを避けて進んだ。すでに夏特有の濃い香りが漂い始めている。水を含んだ木々の吐き出す熱で、森全体が歪んで見えた。
 この街へ来てから、随分と日に焼けた少年の細い体が、倒れた木々を軽々と飛び越えてゆく。積乱雲が風船のように膨らんでいる。
 湖は昨日と同じく、静寂をたたえ、ただ其処に横たわっていた。少年は大きく息を吸い込み、耳を澄ませた。鳥の声、小動物の足音。そして湖に目を凝らす。
 少年は湖に近づき、周りを見渡した。人影はない。何事も無かったかのように目を閉じている。
 少年は膝を折り、右手を湖の中へ浸した。身を切るかのような冷たさに、反射的に手を出した。すぐに水分は蒸発していった。
 あの浮遊少年は幻だったのだろうか。その時初めて少年は思った。幻覚を見ていたのだろうか。それとも白昼夢か。
 冷たい水が少年を拒んでいるように感じられ、熱を帯びていた思考がゆっくりと冷めてゆく。遠くで鳥が羽ばたいた。もう、朝御飯の時間だ。
「せっかく軒の下に朝顔が咲いていたのに、あの台風で飛ばされちゃったよ。」
 少年が口惜しそうに言った。
「今日涼しくなったら買い物に行ってきてくれる?私は庭を片付けるから。」
 うん、いいよ、と少年は力強く頷いた。頼ってくれたことが嬉しかった。少しでも役に立てればそれで良かった。
「庭の入り口に在る背の高い木は無事だったんだね。花もそんなに散ってない。」
 少年が離れた所に在る窓を指差して言った。
「多分山法師ね。御爺様が好きだった花。本当はあまり縁起がいい木ではないらしいけれど。」「どうして、」
「花弁が四つだから其れが死を表すって、つまらない縁起かつぎだって、言ってらしたわ。沢山咲いたら綺麗なのにって。」
「御爺様は植物が本当に好きだったよね。」
「ええ。山法師は、秋には赤い実がなるのよ。でも夏休みの間しか此処には居ないものね、ジャムに出来ないわ。」
 姉は残念そうに言い、あとでメモを渡すわね、と立ち上がった。今日はいつにも増して顔色が青白い。
「姉さん、具合悪いの。」
「少しね。暑さの所為かしら。」
 弱々しく微笑む横顔に、少年は母を思った。姉弟の両親は、早くに交通事故で他界している。少年は両親の顔さえ、写真以外では見たことが無い。二人は祖父母に育てられた。其の祖父母も、少年が十歳の誕生日を迎えると他界してしまった。
「庭の手入れは、明日にすれば。」
「少しずつでも毎日直しておかないとね。」
 姉は一度言ったことを絶対的に曲げない。少年は其れを十分理解しているので、其れ以上は言わなかった。
 バスに乗って、商店が建ち並ぶ界隈へと出かけた。歩く度に汗が鎖骨を流れた。人が多い所為か、少年が滞在する屋敷よりも気温が高いように感じた。
「茗荷といんげん、あと、南瓜とスモモを。」
 八百屋の店先でどれがいいかと見ていたら、長身の、若い店主が出て来た。
「見ない顔だけど、どこの。」
 眩しいほど白いTシャツに、濃い色の細身のジーンズという服装で、青年とも呼べそうな店主は、少年の注文したものを籠から取り出しながら聞いた。
「東京から。」
 白いポロシャツに紺の半ズボンという、土地の子供とは違う小綺麗な服装の所為で、バスに乗ってからずっと、地元の人から異質なものを見るような目つきで見られてきた少年は、店主の気さくなものの言い方に安堵を覚えた。
「観光?何も無いだろう。」
「祖父の家が在るので。」
「へえ・・・もしかして湖の近くの。」
 店先の硝子の風鈴の音が、少年に夏を印象付けた。
「あの湖は何ていう名前なんですか。」
 どうして祖父の屋敷を知っているのか、という疑問を抱きながらも少年は聞いた。
「さあ・・・名前なんて無いと思うな。小さな湖だしね。昔からあの近くに、大きな屋敷が在るって聞いたことがあってね。」
「あの湖は、地元の人だったら皆知っているんですか。」
「聞いたことない?」
 店主は、紙袋に詰めた野菜と果物を少年に渡しながら言った。
「伝説があるんだ。」
「伝説、」
 店主は、少年に耳を近づけるように手招きした。店主の、少年と同じ薄茶の髪の毛が間近に見えた。良く見ると瞳の色も薄い茶を帯びている。
「あの湖で死んだ子供の幽霊が出るって。」
 少年は驚いて言葉を失った。しかし、其の様子を見た店主は、いきなり吹き出した。
「何ですか、」
 こらえ切れないように笑い始めた店主を見て、少年が訝しげな顔をした。
「本気にとらないでな、冗談だからさ。」
 店主はあっけにとられている少年を尻目にひとしきり笑った後、少年にブリキのバケツからソーダ水を出して渡した。
「からかって悪かったな、これはおわび。まあ、あの湖の周りは、他の場所よりも木が密集していて、木から出る水蒸気と、湖に反射する光や其の他の色んな要素が混じって、或る時間帯に限って、稀に蜃気楼のようなものが現れるらしいよ。」
 ソーダ水の壜は、ひんやりと少年の手に収まった。
「・・・蜃気楼、」
「逃げ水は知っているだろう。原理はあれと同じさ。」
 店主は笑って、毎度あり、と言った。
 姉に頼まれた物を買い終わると、少年はソーダ水を飲みながらバスを待った。
 長く長く続く道の果てに、砂埃と逃げ水が揺らめいている。少年は、あの浮遊少年を思い出していた。
 目は確かに合ったのに、顔がよく思い出せない。少年と同じくらいの身長と、定かではないが髪の毛の色も似ていたように思う。
 バスを降りると、雲は黄金に染まっていた。天辺のブルーから地平線の朱まで、徐々にグラデーションをなす空。歩道の脇に植えられた向日葵。夏は硝子のポットのようにカラフルだ。沢山の色を吸収し、そして夜の闇へと変化を遂げる。今は、その少し前の時間。
 少年は重い荷物を抱えたまま、バスを降り、林道を登った。夕日の甘い香りが鼻先をくすぐる。蔓草が少年の足に絡みつく。
 湖に着いた時には、夕日が半分木々の間に沈みかけていた。少年は深呼吸しながら湖に近づいた。
 透明な空気に柔らかい緊張が走り、風が止まった。少年はじっと待った。虫の音が止んだ。森全体が目を閉じた其の刹那、浮遊少年は現れた。この前と同じ出で立ちで、一人で湖の上を漂っている。薄茶色の髪の毛が揺れて、浮遊少年の細い手足が頼りなげに動く。湖はまるで鏡のように光っている。
「ねえ、」
 少年が声を発した。怖くはなかった。ただ、どこか自分に似ているような気がした。
 浮遊少年が歩くのを止め、顔を上げた。その輪郭は不鮮明だが、確かに少年を見ている。しかし、言葉は無い。
 少年はどうしてよいのか解らなくなってしまい、下を向いた。
 音が戻ってくる音を聞いた。匂いも、感覚も。少年は、辺りを何度も何度も見回した。
 夕日が森の中に沈んだ時、少年は駆け出した。浮遊少年に会えたことの密かな喜びと共に。
 砂利道を駆け、椿のトンネルを抜け、蔓薔薇の絡みつく垣根の在る、姉の待つ家へと着いた。
 あちこちから虫の鳴くか細い声が聞こえてくる。蚊取り線香の仄かな匂い。
「ただいま。」
 応答は無い。少年は荷物を置き、立ったままもう一度繰り返した。暗い家の中は物音一つしない。
「姉さん、」
 少年は靴を脱ぎ、台所を覗いた。
「姉さん、居るの。」
 其の時、少年を呼ぶ小さな声が聞こえた。少年は声のする、姉が自室として使っている部屋に入った。
 姉は、畳の上に敷いた布団に横になっていた。夜具として使っている白地の浴衣の所為で、姉はさらに青白く見えた。
「どうしたの、姉さん。」
 少年は姉に駆け寄り、枕元に座り込んだ。
「ちょっと、疲れが出たみたい。」
「遅くなって・・・御免なさい。」
「いけないと言ったでしよう。明かりが少ない所なんだから・・・。」
 喉の奥から絞り出すような声に、少年は泣きたくなった。また姉さんを守れなかった。自分がもう少し早く帰って来ていれば。
「病院に行こう。」
「良いのよ、そんな大げさなものじゃないわ。それより、台所に夕御飯作ってあるから食べなさい。」
「でも、」
「私は大丈夫。買い物有り難う。冷蔵庫に入れておいてね。其れと、今夜は蚊帳を出して寝るのよ。」
「解った、僕は大丈夫だから。姉さんは何か食べたの。」
 そっととった姉の手は熱を帯びていた。
「食欲無いの。其れより、冷たい水をくれる。」 「解った、熱は計ったの。」
「さっきよりは下がったと思うの。自分の体だから解るわ。」
 姉は儚く微笑んだ。少年は静かに腰を上げ、台所へと向かった。姉は人一倍体が弱いのに、いつも自分はかばってあげられない。姉は自分よりずっと強い心を持っているのに、体は反比例するように言うことを聞かない。どんなにか歯痒いだろう。自分の意思に反して倒れてしまう体を、きっと姉は恨んでいる。
 流しで汲んだ冷たい水をコップに入れ、こぼれないように姉の元へと運んだ。少年がコップを姉に差し出すと、姉は其れを喉の奥へ染み込ませるように少しずつ飲んだ。少年は其の様子をじっと見ていた。姉は其の視線に気づいて空のコップを少年に渡した。
「有り難う。美味しかった。もう平気だから、あなたは夕飯を食べて。」
 少年は不安そうな目をしたまま頷いた。
「西瓜が冷えているから食後に食べて。種はきちんと出すのよ。飲み込むと頭の天辺から芽が生えてくるわよ。」
 姉が微笑みながら言った。
「飲まないし、芽なんか生えてこないよ。」
「ほら、早くお行きなさい。」
 姉は少年を急かして立ち上がらせ、少年は振り返りながら部屋を出た。柱時計の音がやけに響いて聞こえた。
 少年は寝床に入ってからも、いつまでも眠れずに起きていた。天井を見つめては、人の顔のように見えて目を反らした。蚊帳の所為で、自分が外部から隔離されているような感じがした。
 開け放たれた廊下から、虫達の声が響いてくる。高いキーの虫と低いキーの虫。リズムを刻むように鳴いては止め、そして大合唱が再び始まる。
 風の無い、蒸し暑い夜だ。たった一つしかない扇風機は、今は姉の部屋だ。
 空から、真ん丸な月が少年を見下ろしている。この世界に、少年と月だけが居る。月の声が聞こえそうな夜だ。
 庭から匂う、野いばらの微かで甘い香り。野生の蔓草で、姉が良い匂い、と花に顔を埋めていたのを思い出した。其の小さな白い花は、姉に良く似合っていた。
 そんなことを思い出していると、余計に目が冴えてくる。少年は横になったまま、汗ばむ額を腕でぬぐった。水を持ってこようと思ったが、億劫に思えて止めた。しかし水のことが頭から離れない。水は次第に揺れ、湖に変化してゆく。そういえば、浮遊少年は少年の言葉に反応した。何か問い掛ければよかったと、少年は少し後悔した。僕を見て、何を思ったのだろう。どうして消えてしまったのだろう。
 虫の声がまるで雨のように、水の流れのように少年を通り過ぎていく。
 涼しい風が吹いた。少年は手のひらに水の感触を覚えた。身を切るように冷たく、何故か懐かしいあの感触だ。
 目を開けると湖に居た。地面は湿り、水辺の草花は露に濡れ、重たそうに首を垂れている。深い霧が立ち込め、今が昼間なのか夜なのかさえ解らない。ただ、少年の前にはぼんやりと湖が見えている。
 いつの間に自分は此処に来たのだろう。さっきまで寝床に居たはずだ。あまりの暑さに水を求めて此処まで来てしまったのか。それならすぐに帰らなくてはいけない。姉さんを一人にしてはおけない。
 少年が立ち上がった時、今までゆっくりと流れていた霧の流れが止まった。瞬時に空気が凍ってしまったようだと、少年は思った。ただ体は冷え、熱は蒸発し霧となる。
 少年は湖に目を凝らした。やがてぼんやりと湖の上に浮遊少年が立っているのが見えた。数秒見つめあった後、少年は口を開いた。
「君は誰、」
 浮遊少年が、寂しそうに目を閉じた。
「待って、」
 少年は叫んだ。
 浮遊少年は踵を返し、霧の中に消えてゆく。霧は流れを取り戻し、浮遊少年の姿を覆い隠してゆく。
「待って、」
 叫びながら手を伸ばすと、其の手は虚空を描いた。目を開けると、枕元に心配そうな顔をして姉が座っていた。
「夢、」
 少年は呟き、荒い息を整える為に起き上がって深呼吸をした。
「悪い夢を見たのね。」
 姉は白い手拭で少年の額と胸元の汗をぬぐった。
「随分とうなされていたから。」
 姉が真っ直ぐに少年の瞳を見ていった。姉の目の色は、写真の中で見る死んだ両親に良く似ている。闇のような黒だ。けれど少年は色素が薄く、光の当たり方によっては金色を帯びている。其れを、姉はいつも褒めてくれるけれど、その度に、何故か姉との距離を感じた。
「とても怖い夢を見たんだ。」
 少年が言うと、姉が寂しげに笑った。
 少年はもう一度横になった。姉がゆっくりと団扇で扇いでくれる。
「今夜は月がとても綺麗ね。」
 姉が振り返って言った。
「湖の中から月を見上げているような気分だわ。」
 姉の言葉を聞きながら、少年はまた眠りの流れの中へと身を浸していった。

 月が二人を見ている。其の、崇高な眼差しで。

 朝日が眩しくて目を開けた。台所からは、姉が立てる包丁の、小気味良い音が聞こえてくる。夏鳥の声がする。もう夏の一日は始まっていたのだ。
 少年はすぐに起き上がり、着替えて台所へ向かった。
 白地に薄く野薔薇がプリントされている、涼しげなサマードレスを着た姉が振り返った。
「今日は商店街の方でお祭りがあるらしいわよ。行ってみない。」
 少年がぱっと顔を上げた。
「石榴商店街の近くに神社が在って、其処に夜店が並ぶのよ。」
 少年は東京の花火大会を思い出した。延々と続く夜店と、いつまでも鳴り響く花火。ひしめき合う人並み。いつも姉に手を引かれて歩いた。
「ご飯食べ終わったら、朝市に行って来てくれるかしら。」
「今日は其れだけでいいの。」
「其れから、庭に水をまいて。」
 台所の壁に掛けられた、大きな螺子式時計を見ながら姉が言った。
「あったらさくらんぼと、にんにく、紫蘇の葉も。」
「解った。」
「あ、待って、」
 今にも駆け出していきそうな少年に、姉がメモ用紙と麦藁帽子を渡した。
「麦藁帽子はいいよ、まだ暑くないし、もう小さいんだ、其れ。」
 少年は大きくかぶりを振って、紙片だけ受け取って玄関へ向かった。
「日差しが強いのよ。」
「まだ早いし、平気だよ。」
 少年は姉の顔を見ないで靴を履き、心配そうな姉の顔を想像しながら「いってきます」と言った。
 玄関を出る時、触れてしまった黒く艶やかな柱が、少年に大きな安心感を与えた。
 簾をめくって外に出ると、其処は夏だった。少年は一度空を仰いでから走り出した。
 朝市が行われている場所は知っていた。以前姉と一緒に行ったことがあるからだ。バスを使わなくても、歩いて十分くらいの場所だ。この間行った時と変わらず、地元の人や観光客などで、市場は明るくにぎわっていた。
 少年はポケットから紙片を取り出し、書いてある品物を探した。紫蘇の葉とにんにくはあったものの、さくらんぼが無い。
 絶えず人のざわめきと足音が聞こえ、土埃が舞う。熱気で体温まで上がりそうだ。
「よう、」
 背後からの聞いたことのある声に振り向くと、この間の八百屋の店主が居た。程好く履きこんで色落ちしたジーンズに、半そでのパーカーという格好が、ますます彼の年齢を曖昧にしていた。
「何を探しているんだ。」
 気さくに話し掛けられた所為か、この店主を随分前から知っているような錯覚に陥った。
「さくらんぼを、」
「さくらんぼはもう時期じゃないだろう。」
「無いんですか。」
「無いと思うよ。さくらんぼは六月が最盛期なんだ。缶詰はこの市にはないと思う。それより今はトマトが美味しい。」
 店主はしゃがみこんで、ござの上に沢山並べてある、赤いトマトの一つを掴んだ。
「綺麗な色。」
 少年はしゃがみこんで、赤く熟れたトマトに見入った。
「代わりにこれを買ってきなよ。」
 少年も同意し、トマトを幾つか購入した。
「あとは、」
 少年が、きょろきょろと辺りを見回しているの見て店主が言った。
「もう、これで御終いです。」
 そう言いながら見上げた店主の瞳の色に、少年は不思議な懐かしさを覚えた。
「じゃあ、少しあそこで休まないか。」
 店主が広場の隅に在る日陰のベンチを指差して言った。
「姉さんが心配するから。」
「・・・そうか、じゃあ気をつけてな。」
 店主に頭を下げると、少年は歩き出した。広場を出る時、店主の声で少年は振り返った。
「どうしてこの街に来た。」
 其の声は、ざわめきの中に紛れずに、真っ直ぐに少年の耳に届いた。
「祖父の遺言状に書いてあったそうです。夏の間はあの屋敷を使いなさいって。」
 少年は、半ば叫ぶようにして言った。目の前を何人も人が通り過ぎて、店主が人に見え隠れした。
「祭り、来るんだろう。」
 少年は、店主に見えるように大きく頷いた。店主が手を振り、少年は踵を返し、また歩き出した。

「ただいま。」
 玄関で靴を脱ぎながら少年は叫んだ。だだっ広い家に、少年の声はやけに響いた。
「お使い御苦労様、お昼御飯にしましょう。」
 少年は買い物袋を持って、姉と一緒に台所へ行った。
「暑かったでしよう。手を洗って。」
 姉に袋を渡し、少年は冷水で手を洗った。井戸から引いて来るその水は、川の水のようにひんやりと、少年の手を弄ぶ。
「美味しそうなトマト。」
「さくらんぼが無かったんだ。代わりに其れが良いかなって。」
 姉は、こっちの方が良いわ、と言って微笑んだ。
 朝食を食べ終えてから、少年は姉の言い付け通りに水を撒いた。水色のホースから勢い良く水が流れ、アーチを作った。水に濡れると、植物達はより鮮やかに夏空に映えた。少年は其れを見て目を細めた。
 軒に絡まった昼顔も、ひっそりと咲く山百合も、一斉に光合成を始めた気がした。
 少年は、早朝のラジオ体操で、最後の日にスタンプカードを持っていくのを忘れてしまったこと、友達の家に泊まって、タオルケットにくるまりながら遅く迄起きていたこと、姉と行った海やプールを思い出していた。夏休みだけは、時計の針が五分進んでいるような気がした。
「もう其れくらいで良いわよ。かき氷があるから上がってらっしゃい。」
 火照った体に、氷は心地よく染み渡った。少年の好きなメロン味だ。
「台所の下の棚にかき氷機があったのよ。作ってみようと思って、昨日シロップを買っておいたの。」
 姉は、冷たい紅茶を飲みながら言った。飾ったミントの緑が涼しげだ。
「箪笥の中を整理していたら浴衣があったの。サイズも多分ぴったりだと思うわ。お祭りに着ていきましよう。」
 少年は、カキ氷が喉を通っていく感触に思わず目を瞑りながら頷いた。夏は特別だ。少年の書く絵日記は、いつも一ページでは足りない。空はどこまでも広く、世界には色が溢れているのだから。硝子が作る密やかな虹に目を細め、少年はスプーンを置いた。
「疲れたでしよう、少し昼寝でもしたら。」
 そういえば少しだるい気がする、と言われて始めて気づいた。昨日の夜、暑くてよく寝付けなかった所為だ。
「タオルケットをきちんとかけて寝るのよ。扇風機は部屋に置いておいたから。」
 姉の手の中で、硝子のぶつかる涼しい音。
「お祭りに行く前に起こしてね。」
 少年が懇願するように姉を見、姉は大丈夫よ、と微笑んだ。
 扇風機を付けると、直ぐに甘い眠りが少年を襲う。催眠術にかけられたように目を閉じた。柔らかく、透明な眠りだった。夢さえも見なかった。
 目覚めると、夕日が落ちかけていた。ずっと遠くからお囃子が聞こえ、少年ははっと起き上がり、姉を呼んだ。
「お祭り、始まっちゃったよ。」
 縁側で本を読んでいた姉はもう浴衣に着替えていた。白地に紺で蝶が描いてある、落ち着いた模様で、姉の雰囲気にとても良く合っていた。
「良く寝ていたから、起こすのが忍びなくて。」 
 姉の長い髪の毛が夕凪にそよいだ。
「そんな顔しないで、まださっき始まったばかりよ。さあ、着替えて出かけましよう。」
 少年の顔に笑顔が戻った。少年は濃紺の浴衣に慣れない下駄を履き、髪を束ねる姉を急かした。姉は小さな巾着を持ち、少年に続いて玄関を出た。
「そんなに早く歩くと転ぶわよ。」
 姉が言うか言わないかのうちに、少年は道端の石につまずき、姉に助け起こされた。少年は自分の幼稚さに恥ずかしくなって俯いた。
 バスから降り、道を下るにつれてお囃子の音、人のざわめきが大きく、近くなる。反比例するように陽は落ち、夜が広がる。
 仏閣に続く石畳の両側には数え切れない程の夜店が続く。色とりどりに流れるスーパーボール。林檎飴や焼きそばの屋台。少年ははやる心を抑え、姉と一緒に御参りを済ませた。カランコロンと鈴を鳴らし、姉の真似をして手を合わせ、目を瞑る。去年と同じことをしているのに、全く違うことをしているような気がした。
 石灯籠には灯が灯り、まるで幻想世界のように、赤い赤い金魚が泳ぐ。姉は黄色と水色のマーブル模様のヨーヨーを買い、腕に下げた。少年は狐のお面を頭にかぶり、綿飴を舐めながら歩いた。
 全てが原色で、闇にまぎれてしまうものなんて何一つ無い。非現実世界に迷い込んでしまったような、奇妙な感じだ。
「今晩は、」
 不意に肩を叩かれて少年が振り返ると、其処には八百屋の店主と駅の車掌が二人で立っていた。
「姉さん、商店街の八百屋さんの、」
 姉が頷き、頭を下げた。
「俺の親父なんだ。」
 八百屋の店主が、車掌の方に手のひらを向けて言った。
「聞いたよ、親父の知り合いのお孫さんなんだって。」
 制服を着ていない車掌は、どこにでも居る普通のお爺さんに見えた。車掌も店主も、黒地の浴衣を着ている。
「もう帰るんですか。」
 店主が姉に向かって話し掛けた。
「ええ、そろそろ。」
「少し歩きませんか。案内しますよ。」
 少年が姉を見つめる。
「そうですね。」
「親父はどうする。」
「いや、わしはいいよ、三人で行っておいで。」
車掌はそう言うと、裏道を曲がった。
 店主の後について行くと、小さな公園についた。提灯が四方八方、至る所に掛けてあり、中央に作られた舞台の上で、ひょっとこのお面を付けた男が奇妙な踊りを踊っていた。その周りには、笛や太鼓を演奏する人達も居る。其の舞台の下を、ぐるぐると回りながら踊っている大勢の人達。皆、同じようにひょっとこのお面をかぶっている。
「これは何ていう踊りなんですか、始めて見た。」
 店主は苦笑いしながら少年を見下ろした。
「解らないんだ。実は、踊っている人達が誰なのかも分からない。この土地の人かどうかも定かじゃないんだ。この舞台は、年によってあったりなかったりするから。」
 少年が辺りを見回すと、人混みから少し外れただけなのに、この舞台を見ている人は少年達しか居ない。
「そういう所なんだよ、此処は。」
 店主は行こうか、と二人を促した。まるで火の玉のように燃え続ける提灯の炎と、いつまでも踊り続ける人達。少年は何度も振り返りながらその場を去った。
「お二人で暮らしてらっしゃるのですか。」
 囃子を背に受けながら、人混みから大分外れた道を歩いた。
「ええ、丁度十年前に妻に先立たれて。」
 店主の後ろを歩いていた少年には、店主の表情は解らない。
「すみません、」
「いえ、良いんですよ。随分前のことだ。其れからはずっと一人身です。子供の居ない親戚の家業だった八百屋を引き受けるようになったのは、五年前くらいです。」
「大分お若く見えるんですけど、失礼ですがおいくつですか」
「今年の六月で三十になりました」
 いつの間にか、眼下に神社を見下ろせる所まで来ていた。
「実は、このお祭り自体、毎年日時が決まっていないんですよ。いつの間にか屋台が出ていて、地元では見たことの無い人達が、金魚すくいや型抜きをしている。」
 店主の言うことが、どこまで本当なのか、少年には見当もつかない。
 どこをどう歩いてきたのか、いつの間にか闇に暗く沈む、あの湖の前に来ていた。湖は夜に紛れて、ぼんやりと浮かび上がるように見えた。
「気味が悪いわ。」
 黒くたゆたう湖は、入ってはいけない領域のように見えた。しかし店主は気にする様子もなく湖に近づいてゆく。山鳩の低い鳴き声が山間に木霊する。
「もう戻りませんか。」
 姉が後ろを振り返りながら言った。
「此処には、お爺さんの遺言状によって、来られたんですよね、他に何か書いてありませんでしたか。」
 突然の店主の其の言葉で、姉が強張るのが解った。
「どうしてそんなこと、」
 姉の声が微かに震えている。闇の中の店主が静かに笑う気配がした。
「もう遅いですし、帰ります。」
 姉は少年の手をとった。そして店主に頭を下げてから、歩き出した。一心に、前だけ向いて。
「僕には息子が二人居ました。今はもう、居ませんが。」
 其の言葉を背中で聞いた。姉の歩く速度が上がった。山道を、ひたすらに無言で歩いた。少年の手を強く強く引いて。
「姉さん、痛い。」
 姉は其の言葉にはっと立ち止まって、少年の手を離した。
「御免なさい、気がつかなくて。」
 姉は弱々しく言い、歩く速度を緩めた。何かが、少しずつ壊れてゆくような気がした。眼の前が奇妙に歪んだ。少年の内部に、何か予想もしていなかったものが侵入しようとしている。
 不意に木がざわめき、暗い空に向かって枝が手を伸ばした。まるで、許しを請うように。

 其の夜、少年はなかなか寝付かれずに天井を見つめ続けていた。喉の渇きを我慢出来ずに、起きだして洗面所へと向かった。
 開け放した窓々から月明かりが差し込んでいたので、少年は明かりもつけずに蛇口をひねった。勢いよく流れ出る水に手を浸し、硝子の小さなコップへ水を注いだ。冷たい液体が少年の体を伝ってゆく。そして水が下りてゆく順路を想像した。其の心地良さに目を閉じ、透明な感触を楽しんだ。飲み終わると、コップを流しの水桶に浸し、縁側へ向かった。
 西瓜を冷やす為に桶に張られた水に足を付けながら、少し欠けた月を見た。
 鈴虫の寂しい鳴き声と、微かに揺れる夏草。少年は目を閉じた。足元の水がゆらゆらと波立つのが解った。其れは少年に湖を思い出させた。耳を澄ませていると、湖が静かに揺れる音が聞こえてくるような気がした。
 頭の中から、どうしても浮遊少年が消えない。もう一度会いたい。どうしたら会えるのだろうか。浮遊少年はどうしてあの湖に居るのだろうか。浮遊少年は自分のことを知っているのではないか。そして、自分もずっと以前から浮遊少年を知っているような。
 何故だろう。答えの出ない疑問が堂々巡りをする。
 どうしたら、会える。少年は月に映る月をじっと見つめた。
 浮遊少年の、あの薄茶の瞳。湖の上を俯き加減に歩く姿。思い返すと、何もかもが悲しい程懐かしい。
 少年は桶から足を出し、傍にあった木の下駄を履いた。月はまだ高い。もしかしたら。少年は何かに導かれるように腰を上げ、歩き出そうとした。
「どこに行くの、」
 少年は其の強い声に驚き、弾かれたように振り返った。寝巻き姿の姉だった。白地に薄青い朝顔模様のある浴衣。少年は途端に、罪悪感に駆られて動けなくなった。
「もう真夜中よ。」
 姉が心配そうな、でもどこか刺のあるきつい眼差しで少年を見ている。
「眠れなくて、少し、散歩に。」
「本気でそんなことを言っているの。」
 姉の口調がいつに無く厳しくなった。少年の顔が強張った。
「どうしたの、一体何があるの。」
 少年は俯き加減のまま、「御免なさい」と消え入りそうな声で言った。
「これから散歩だなんて、馬鹿なことは言わないで。」
 少しの沈黙の後、少年が姉の言葉に頷くと、姉は少年を手招いた。
「さあ早く。もう寝ましよう。」
 姉に手を引かれて寝床へ戻る途中、少年はもう一度だけ振り返って月を見た。月は相変わらず銀の瞳で少年を見つめている。瞬きもせずに。

「かぶと虫を捕まえてくる。」
 少年は昼過ぎに屋敷を出た。手に虫取り網と虫かごを持ち、嫌いな麦藁帽子をかぶって。
 しかし、どの木の周りにも、一匹もカブトムシは見つからなかった。
 そのうちに陽も西に傾き、少年は諦めて帰路についた。
 其の時点で、少年は迷っていた。湖を通らないで家に帰る道も、今はもう知っている。
 そうしているうちに陽は西へ西へと吸い込まれていき、少年は答えを焦った。
 虫かごと、少年の背丈よりもずっと高い虫取り網を持ったまま、坂を駆け下りた。夕日の緋色が、辺りをまるでカーテンのように包んでいる。毒々しい程濃い色の夕日。
 夕霧が少しずつ立ち上る湖に、少年は辿り着いた。最初から、選択肢など無いに等しかったのだ。
 少年が湖に近づく度に、草がかさこそと音を立てた。湖からは、橙に染められた蒸気が静かに立ち上っていた。強い金色の空。草の青い匂い。遠い鳥の声。
 少年が瞬きをすると、浮遊少年は現れた。俯いたまま湖面を漂っている。寂しげな、まるで月のような横顔で。
 少年は湖の淵ぎりぎりの所まで歩み寄った。「君、名前は何ていうの、どうして此処に居るの。」
 浮遊少年がゆっくりと振り向き、薄茶の瞳を微かに動かした。
「一人で、寂しくないの。君は僕を知っているの。」
 少年が矢継ぎ早にした質問に、浮遊少年は少し唇を動かしただけで何も答えない。
「どうして答えてくれないの。・・・喋れないの。」
 浮遊少年は小さく小さく頷いた。
「君はどうして其処に居るの。楽しいの、悲しいの。」
 浮遊少年は首を振った。
「悲しいの?」
 少年がもう一度瞬きをすると、浮遊少年は消えていた。少年は気づいていた。浮遊少年は、夕日の沈む、ある瞬間に現れるということを。
 辺りは夕闇に包まれてゆく。少年は駆け出した。自分の無力さを痛感しながら。浮遊少年は、僕を呼んでいる。そう確信を持って。
「湖に行ってきたの?」
 夕飯の途中で姉が突然言った。
「うん、でも通りかかっただけだよ。」
 少年は姉の声に緊張を感じ、思わず言い訳を言った。
「もう、あの湖に行っては駄目。」
「どうして、」
 少年が食い下がると、姉は食べかけのお皿に箸を置いた。
「どうしても、駄目。」
 少年は、姉が論理に合わないことを言うのを始めて聞いた。そんな姉の反応に驚き、思わず黙った。
「明日は宿題を終わらせなさい。」
 有無を言わせない、強い響きを持った言葉達が姉の口からこぼれるのを、少年は黙って見ているしかなかった。
 姉は一体どうしてしまったのだろう。姉はどうして湖に行くなと言うのだろう。あんなに優しくて穏やかだった姉が。少年は微かに身じろぎをした。そして急に、どうしようも無い程の焦りと、わけの解らない寂しさに襲われた。台所が、とても広く冷たく思えて仕方なかった。

 次の日、少年は姉に言われた通り、自分の部屋で計算帳や漢字帳等を片っ端から片付けていった。十時と三時に、姉が麦茶と冷たい果物を持ってきた。少年は其処までの成果を姉に報告した。
「少し休憩したら。でも、絶対に遠くへ行っては駄目よ。」
 姉は念を押し、少年が頷くのを見届けて、部屋から出て行った。其の細い後姿が障子を開けて出て行くのを見送ると、少年は肩の荷が下りたように深い溜め息をついた。緊張して手の平に汗をかいている自分に気がついた。少年はそんな思いを振り切るように、自分が今し終えた宿題を見回した。自由研究は捕まえた虫達を標本にした。植物の観察も、絵の制作も、読書感想文も。後は数日の日記を残すのみだ。いつもは夏休みの残り数日で姉に泣きついて片付けるのだが、今年は姉に頼らずにやろうと決めたのだ。
 姉の言う遠くとは湖だということを、少年も承知している。でも、浮遊少年に会いたい。会って、あの冷たい湖から救い出してあげたい。
 夏休みは残りわずか。でも、少年には何が出来るのだろう。
「明日、東京へ帰りましよう」
 姉が、夕食の時に静かに告げた。
「明日、」
 少年は実感がわかず、どこか他人事のように呟いた。
「明日の夕方には此処を発つから、それまでに荷物をまとめておいて。」
 グラスの中で、氷がカラリと音をたてて溶けた。姉が静かにフォークを置いた。
「明日って、まだ夏休みは終わってないよ。明日じゃなくても間に合うよ。」
「もう決めたのよ。」
「宿題だって終わったし、急ぐ必要はないよ。」
 少年が必死に止めようとしても、姉の意思は揺るがない。もうこれ以上何を言っても無駄だと解っていながら、少年は声を荒げた。
「どうしてなのかわけを言ってよ。最近の姉さんは少し変だよ。」
 姉もこの言葉には反応を示した。姉も自分の中の矛盾に気がつかないわけは無かった。でも、必死に自分を誤魔化そうと抗っていたのだ。少年を連れていこうとする何かから抵抗していたのだ。
「お願い、私の言うことを聞いて頂戴。」
 姉が俯き、両手で顔を覆った。少年は姉を哀れんだ。少年にとって姉がただ一人であるのに対して、姉も少年が全てだったのだ。
「解ったよ、姉さん。明日、東京に帰ろう。」
 夏虫が鳴いていた。誰かを思って泣いていた。

 朝、少年は荷物をまとめる作業を始めた。小さなリュックに少しの荷物を入れるだけだ。すぐに其の作業は終わった。其れから姉を手伝い、この広く古い屋敷をまた眠らせるための準備をした。沢山の戸、窓、扉を閉めて鍵をかけ、蚊帳、扇風機をしまい、掃除をしてから家具を布で覆い、コンセントを抜き、ガスの元栓を締めた。それらが全て終わる頃には、もう夕方近くになっていた。時計は少年達がいなくなれば自然に止まるだろう。
 少年と姉は手拭で汗をふきながら、縁側で西瓜を食べた。
「夜行列車で帰りましよう。」
 姉が前を向いたまま言い、少年も頷いた。
「これから駅長さんの家へお礼と今日帰ることを言って、鍵を置いてくるから、少し待っていてね。」
「解った。」
 少年が言うと、姉がやっと安心したように微笑んだ。
「すぐに戻ってくるから。」
 姉は言い、縁側の戸を閉め、玄関の鍵をかけて門を出た。
 姉が行ってしまい、夕日が重力に負けて落ちていくのを見ていると、少年は、堪えられない程の焦燥感に襲われた。少年は、何も考えないように努めた。自分を抜け殻だと思えば少しは救われた。
 しかし、時がまるで生きている生物のように少年の全身を揺さぶった。今、会わなければもう二度と会えない。其の確信に満ちた思いが少年の足を走らせた。
 どこをどう走ったのか。気がつくと湖の前に立っていた。乱れていた呼吸も、其の静かに揺れる湖面を見た瞬間に静まった。少年の細い髪の毛を風がさらった。夕日が、最後の赤をとどめようともがいている。湖面は全てを調和するように優しく色を変えた。
 少年は静かに息を吐いた。そして静かに其の時を待った。
 ゆらゆらと夕日が歪み、いつかのように全ての時が止まった。色さえ移り変わるのをやめてしまった。
 浮遊少年は波紋と共に現れた。後姿のまま弱々しく佇み、数歩歩き、そして何かに吸い寄せられるように少年の方に振り返った。其の瞳の深い輝き。消え入りそうな微笑。
「僕を知っているんだね。」
 少年が問い掛けると、浮遊少年は答える変わりに微笑んだ。そして瞳を閉じた。
「其処は寂しいでしよう。僕と一緒に行こう。」
 浮遊少年は驚いたように目を開けた。そして静かに首を振った。
「僕の姉さんのこと、きっと気に入ると思うよ。優しくて、料理が上手で。」
 浮遊少年はなおも首を振り続ける。
「どうして、其処は冷たいんでしよう。こっちにおいでよ。」
 浮遊少年は、答えの変わりに少年の方に手を伸ばした。
 浮遊少年は僕を必要としている。僕の助けを。そして、僕も浮遊少年を必要としている。
 少年も手を伸ばした。自分と同じ色の瞳を見つめながら、浮遊少年の方へと足を伸ばした。
 湖面は静かに波立った。浮遊少年の微笑が、戻ってきた風に消え、そして景色は動き始めた。

 避暑に来ていた少年が湖に消えたという噂が、風のように流れていった。
 そして、夕暮れ時になると、二人のよく似た少年が、湖面に立つと。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?