煙草をのむ女
窓ガラスに付いた雨粒に、禍々しいほど鮮やかなネオンの光が反射していた。外は冬の雨で、階下の店からは誰かの歌う下手な歌謡曲が聴こえており、私は二階の六畳間で毛布にくるまっていた。
騒音とアルコールの匂いが立ち込めるところで、眠りはいつも白昼夢のように細切れに訪れた。眠っては目を覚まし、下の様子に変わりがないことに呆れてまた眠る。
時折、風変わりな客がやって来て二階に眠る子供へお土産を渡しにやって来る。寿司屋の折詰だとか、舶来の菓子だとか。子煩悩であることをアピールしたかったのか、あるいは、スナックの二階に寝かされた子供が不憫だったのかもしれない。
店には三人の若い女が雇われていた。三人のうち二人は明るく、いつでも上機嫌で客をあしらうのが上手い娘だったが、一人だけひっそりとしか笑わない細面の女がいた。他の二人よりも、幾らか年嵩だったと思う。
その夜も、私は店の二階に寝かされた。開店前に女たちと夕食の店屋物を食べ、九時を過ぎると眠らなければならない決まりになっていた。半ば癖のように眠った私は、布団を剥ぐ誰かの手で目を覚ました。
常連の客であった。
いつも背広姿できちんと撫で付けた髪の男は、きわめて紳士的な振る舞いをする。母が上客であると洩らしていたことを、私は覚えていた。お土産を渡すために幾度か、二階へ上がって来たこともある。
しかしその日は、いつもと違っていた。布団を剥いだ手が、私の脚に触れていた。今までとは違うものに、私は恐怖を覚えた。
男は、甘ったるい声で私を呼んだ。アルコールの匂いが漂った。また、名前を呼ばれる。手は、次第に上へと移動していた。
声を出す事も出来ないまま過ぎた時間は、ほんの数秒だったのだと思う。しかし、七歳の子供にとってそれは、ひどく永い時間のように感じられた。
「お客さん」
男の背後から、女の声が降ってきた。男はびくりと反応し、布団をかけ直してすり抜けるように階下へ降りていった。
ひっそりとしか笑わない、あの女が薄明かりの中に立っていた。乱暴に掛けられた布団を確かめるように丁寧に掛け直し、女は私の短い髪をそっと撫でた。冷たい手だった。
「大丈夫だから、もう、寝なさい」
部屋から出ようとする女を慌てて引き止めると、女は薄っすらと笑って畳の上に座り込んだ。ドレスの胸元から、くすんだ水色の煙草を取り出して火を点けた。
女は細い目をさらに細めて、とても美味そうに煙草を吸い、暗がりのなかで火は蛍のように光った。濃密な煙が、狭苦しい部屋の中に満ちる。
私は初めて、女の名前を呼んだ。環(たまき)というのが、女の源氏名であった。
お客さんではないのだから、そんな名前で呼ばずとも良いという趣旨の言葉が返ってきて、私は黙るしかない。女の本名を知らなかったのである。
ユキコ、と女が呟くように言った。
――空から降るのとおんなじ雪よ、もうすぐここも積もるわねえ。
それきり黙った女は、薄い微笑みのまま煙草を灰皿に捨てて立ち上がった。囁くような声でおやすみを言い、階段を降りる足音は店の喧騒に溶けていった。
雪が降る季節が近づくと、いつもその女を思い出す。雪子。彼女は今、どこで何をしているだろうか。
冷たくて細い指に挟まれた茶色のフィルター、香水の匂い。季節には不釣り合いな、あざみ色の爪。
私は、彼女ほど美味そうに煙草をのむ女を後にも先にも知らない。
冬の夜は澄んでいた。寒さに震えながら、私は煙草に火を点けて、深く深く吸い込む。吐いた煙は、黒い空へと溶けてゆく。
彼女が今の私を見たら、何と言うだろうか。煙草なんて吸ってないで、早く寝なさいと笑うだろうか。