リノリウムの緑色

 今ではもう大変に健康体(見た目的にも)を誇るわたくしであるが、幼少期は病院と縁が深い体質だった。
 そもそもが八か月の未熟児で生まれ、ひと月ほど保育器の中で過ごした事がすべての発端のような気がする。小さく生まれるというのは、貧弱な肉体で生きねばならないのと同義であった昭和。いまはもう、医療も科学も進歩しているから、そんな事はないのかもしれない。
 十歳までの間に三度の手術を受け、一年に一度は必ず入院し、入院とまでは行かなくても休みがちで体育の授業の後にはグロッキーになる子供に、友達が出来るわけがない。
 寝たままでも摂取できるエンタメはその頃本のほかになく、読書の習慣がついたのは病院のベッドの上である。
 十歳を半年ほど過ぎたある秋、ひとりで売店に行くことを許された。それまでは親が買い物をしてくるのが通例であったのだが、親が毎日見舞ってくれるわけでもない。一応、非常時のために小遣いを渡されていた私は、看護婦さんに髪を洗って貰うためにシャンプーを買いに行った。
 点滴のスタンドを引きずって、四階から一階の売店へ行く道のりは、ほとんど寝たきりだった子供の身体には大いなる負担だった。息が切れる。疲れる。途中のベンチで休まねばならないほどに体力は無くなっており、自分の貧弱さに絶望感を覚えた。
 スタンドを握りしめたままベンチに座りうつむいていると、不意に声をかけられた。
 同室であった幼い患者の、姉であった。夕刻や週末になると、末弟の見舞いにやってくるしっかり者の姉。彼女は小麦色に焼けており、溌剌とした感じの良いお嬢さんだった。しかも、私と同い年。
 大丈夫かと問いながら彼女は苦笑していた。私の顔色がどうにも大丈夫ではなかったからだろう。
 売店に行きたいのだと告げると彼女は一緒に行こうと私の右腕を取った。
 かくして、左手に点滴スタンド、右手は同い年の彼女に取られた私は、やっとの事で売店へとたどり着いた。今思うとあれはほとんどゾンビの体である。
 リンスインシャンプーと文庫本(なぜか江戸川乱歩が売っていた)を買い終えて病棟へ戻ると、その時点で軽く発作を起こしていた私はそのままベッドに逆戻りした。髪を洗って貰えたのは、その翌々日である。
 私と一緒に戻った彼女は、買い物に出たことを酷く咎められていた。私を助けただけのことに、とばっちりを食ったわけである。
 私が退院する前日の日曜、彼女はまた弟を見舞うために病院へ来ていた。明日退院なのだと告げると彼女は破顔し、良かったねえ、元気になってねと言ってくれた。売店までの冒険の詫びを言うタイミングを逃し、私は月曜、母に連れられて病院をあとにした。
 しかし私は退院後一週間も経たずに再入院の運びとなり、また同じ病棟に舞い戻ることになる。今度こそ彼女に「あの時はごめんね」と言えるのではないかと期待したが、彼女の弟もまた、すでに退院してしまっていた。それから一度も、彼女に会うチャンスはなかった。
 何処に住んでいるのかも知らず、下の名前さえも知らない彼女は、同い年のくせにお姉さんだった。
 病院の緑色の床を見るたびに、彼女のことを思い出す。
 涌井さん。お元気ですか。あの時はありがとう。こちらは健康でなんとかやっています。
 大人になった彼女といつか酒でも飲みたいな、などと思ったりするのだが、これはきっと叶わない夢なのであろう。

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