香水の話
香水。匂い。五感の中で特にセンシュアルな分野だと勝手に思っている。
花の香り。金木犀の匂いがあたりに漂えば秋の訪れをいやおうなしに感じるし、冬の朝の乾いた匂い、春の土埃めいた匂い、香りはいつも、記憶と細い糸で繋がっている気がする。
昔の記憶を辿る時、思い出すのはいつも匂いである。
五歳の時、母の鏡台にあったシャネルのno.5を身体中に噴霧し、そのまま病院に担ぎ込まれたことがある。あろうことか香水が眼に入ってしまった私は、数日のあいだ両眼にガーゼと軟膏をあてられて過ごした。子供って、ばかです。
母や姉の香水は、いつも大人の匂いがしていて憧れたものだった。
十八になり、親戚のお姉さんから贈られた香水はゲランだった。あまりにふくよかなイメージの匂いは、可愛さとも美しさとも無縁な自分にそぐわないもののような気がして、結局数回しか付けないまま抽斗の奥にしまい込んだ。
二十歳を過ぎたころ、自分で香りを選ぶようになったが相変わらず青くさい香りばかり選び、音楽に浸りたいだけの私は、ライブハウスでいつも煙草のフィルターを噛んでいた。
その店に、常連の若い青年がいた。ぱっと見、性別がどちらなのか判じかねるようなとにかく綺麗な子で、周りには着飾った女たちが群がり、しかし中心の彼は何故かいつも、つまらなさそうな顔で笑っていた。
ぽつりぽつりと言葉を交わすようになったのは、互いの顔を見知ってから少しあとのことだ。
毎週末、同じ場所で顔を合わせれば、否が応でも共通の知り合いが生まれる。いつの間にか彼と私は、会えば交互に酒を奢るようになっていた。
グラスが空になるまでの間、たわいもない話をする。それだけの関係が半年ほど続き、それはある夜唐突に終わった。
彼の恋人という女の子が、私をぶったからである。
彼女は泣いていた。彼から切り出された別れ話の原因を、私に求めたのらしかった。
嫉妬と怒りに満ちた彼女は美しかった。綺麗に巻いた髪を揺らし、可愛らしい声で悪態をつく様に、私は見惚れていた。打たれた頬は痛んだが、彼女のほうがもっと痛かったに違いない。
次の週末、騒ぎの張本人である彼とまた同じ場所で会った。詫びるような言葉を2、3掛けられたと思うのだが、あまり覚えていない。薄暗いカウンターの端で白くて細い手が伸び、彼の頬と私の頬がつかの間触れ合った。恋のいざこざに巻き込んだ謝罪として、抱きしめるような真似をする男に私は笑ってしまった。
果実のような匂いは彼の体温であたためられ、私の鼻腔を満たした。
彼は女ものの香水をつけていた。
今でもその匂いがたまらなく好きだ。
だがその匂いを嗅ぐとき、思い出すのは決まって女形のような男の横顔と、怒りに身を任せた、あの彼女の潤んだ瞳である。
あれから一度も、その彼には会っていない。
自分は確実に老いているのに、記憶の中の彼はいつも若く、やっぱりつまらない顔をして佇んでいる。今も変わらず、澄ましたような顔で女たちに囲まれているだろうか。
現在の私には、確かめようもないことである。