『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第141回 第107章 16歳、夏(ああ、遠き昔のあれやこれや)
私が高校2年生、つまり16歳だった時のことである。夏休みの初日は1学期のあまりの疲れから爆睡していた。起きてから振り返れば、無防備で夢の世界に入り込んでいた。できれば、悪夢保険をかけ、身を守るため鎧甲冑に身を固めて、さらに電磁バリアーを張り巡らせて就眠したいでごわす。バスケットボールの札幌市内高校対抗戦(優勝校は補欠選手も含め全員、姉妹都市のポートランドへ8日間無料ご招待。スポンサーはビール会社清涼飲料部門)に出ていてうまくロングシュートを決めることができた直後に、床に接触する寸前のボールが一転して複数の風船に分かれて上昇していったと思ったら、途中で全部パンっと破裂して、中からカラフルな紙が散らばって落ちてくる変なシーンが現れた。あれは一体何だったのだろうか。次は予備校の特進コースで1学年上の数学の試験を受けているのだが、賽の河原のソバ屋台のように(「すいません、お客さん。生憎ちょっと七味を切らしちゃって、The Sanzu Riverの向こうに控えてる一味から借りてきます」「戻って来れんの、あんた?」)、一問解くたびに次の問題が問題用紙の白紙の部分にレーザー印刷されてどんどん追加され(「ちょっとたんま」)、問題用紙は幅の広いトイレットペーパーを繰り出すように際限なく伸びて、しかも宇宙映画の冒頭場面のように幅が末広がりになって見えていって、最早収拾がつかなくなっていくのだった。最後に見えた時の幅は、製紙工場で製造されたばかりの原紙のロールほどになっていた。
その後は一部記憶がなくなった後、今度は切羽詰まってトイレをあちこち探す夢を延々と見続けていた。ところが、せっかく見つかっても、どこのトイレも何か不条理かつ切ない理由で私にだけ使えなくされてしまうのだった。それに、トイレというより、昔の「便所」、さらには大昔の「ご不浄」としか形容できない惨状を呈した場所にも何回か逢着した。視覚臭覚悶絶型施設と言い換えても良い。そうした逃れる術のない責め苦を強いられてから、膀胱が英語でいうcritical situationになってようやく目覚めると、結局15時間近くも寝ていたのだった。その時、部屋の中が薄暗がりになっていたため、起きたのが早朝か夕暮れ時か判然としなかった。「誰そ、麻呂?」時ってか?
余計な前置きが長くなってしまったが、その翌日、夏休み2日目からイタリア語の初歩に手を染めるようになり(母子祖父家庭から難関大学の難関学部1つのみを受験する人間としては、「こんなことやっているバヤイではない」)、さらに3年生になる前の春休みに、剣道を習いに札幌に来ていたデザイナーズ学ランのオーストリア人少女(「押忍!」[おしにん!]。「あ、それ読み方違うからね」)と練習試合で知り合いになって、市街地を見下ろす旭ヶ丘のコンクリート強化崖に建っているそのコのホストファミリーの産婦人科の先生宅で毎週金曜日夜にドイツ語と日本語の交換授業を始めてしまうという思いも寄らぬ展開になってしまい、さらに、「すすきのの帝王」だった独身の調子のいいおじさんに「お前は昔なら元服した年だ。もう十分大人だ」という理屈で強引に言いくるめられて高校の下校途中に横幅の広い軍用車まがいのオリーブ系統の迷彩塗装の車で時々「捕獲」されては、大通公園と医大の間に建つ、ある、さほど古くないオフィスビルの空堀地下アトリウムにある声のかすれたオーナーの経営する鉄骨バー「さーさん」に連れて行かれて、午後の明るい光の中で違法に生ビールやカクテルやスコッチをおごってもらうような生活になってしまったのは、中2の時にイタリアからイタリア人の男子生徒がクラスに転校してきたのが最初の原因だった。
第108章 「錬金術師」の叔父 https://note.com/kayatan555/n/ncdadccf0125e に続く。(全175章まであります)。
This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2025 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.