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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第161回 第127章 硯海岸へのドライブ継続中

 さて、今あくびをこらえながら運転しているのはフランケンから交替した私である。ちらっと空を見上げてみるが、今日もきっと雨は降らんけん。信号が赤になりそうになった。いつもなら、周囲の状況を一瞬で察知して左右の斜め方向にガンを飛ばし、青信号切れすれすれを繰り返しながら停車せずに走り続けるところだった。でも今日は大切なお嬢様をお守り申し上げなければならないので、騎士のような、学級委員長のような気分になり(「こほん」)、全部真面目に信号に従おうと思った。すると、小春ちゃんの目が私に対する尊敬に満ちて見える。あ、ぜーんぜん勘違いのようだ。外を見ている。冷たいわねえ、ふんっ、あたし知らない。この子はピアノもうまい。法被を着せて和太鼓を力一杯叩かせてみたい。(「はっ!」)。でも、おじちゃんの頭は叩かないでね、まだ使うんだから。
 長すぎる髪が風に梳かれて流れて行く。60年後、蛍光塗料入りの紫に染めているだろうか。一瞬、そこまでは行かない10年後の想像をしてしまった。まだ誰も海水浴になどやってこない初夏の波打ち際を、19歳になったこの子と手をつないで二人だけで笑顔で走っているスローモーションの場面である。もしもできるなら、手だけでなく、足と足もつないで走りたいものである。オランウータンごっこだっち。
 スマホが鳴った。待ち受け曲はSeptemberに変えたばかりだ。急ぐわけでもないので、路肩に停まって声を聴いた。「あいよ」、用件はすぐに終わった。再び車を走らせる。
 ドライブ中に聴くなら、やはり歯切れの良い早口のアメリカ英語が一番いい。Gooood morning! まだ9月になる前にSeptemberを意識する時には特に感慨はないが、過ぎてから振り返らざるを得ない時期に入ってしまうと、同じ月がまるであまりぱっとしなかった10年間にも思われて、物憂い気分になってしまう。なぜなら、その次の月は以前中旬に初雪が降ったこともあった10月であり、多くの人々のアンコールに応えて8月に戻るわけではないからだ。今年の9月、もっとうまく楽しく過ごせたんじゃないか? 社会生活で気を遣ったつもりで相手に遠慮しても、その相手は別に何の感謝もしないぞ。(なお、フランス語のencore=アンコールという単語は日本語にも英語にも入っているが、フランス人自身はコンサートでそうは言わず、代わりにbis=ビスと言う)。目覚めには銅鑼を鳴らしながらの広東語(やかましくていっぺんに覚醒する。難聴と脳震盪になりそう)、仕事始めはドイツ語がぴったりで(脳が集中力を増す)、昼食時はフランス語(食事がエレガントで楽しくなるざます)、エスプレッソを飲む時はイタリア語(少ない単語で意味を端的に通じさせるので、短い休憩に向く)、愛を語るときは方言。お互いに方言がきつくてコミュニケーションが取れないときには、まず相手を「この田舎者!」と詰ってから手話に切り替えるといい(お互い様だべさ)。暗闇でシュワッチ。そなたはどこかの星人か。
 日本語に切り替えるのが面倒だったのか、小春ちゃんが父親にオランダ語で何やら話した。ジェスチャーが激しく、まるでイタリア人である。きれいだが聴き取りにくそうな発音が続いた。それでも、意味が想像できる単語が数個出てきた。とは言え、オランダ語はドイツ語からの類推で全部分かる言語ではない。スマホの相手は当別町から合流してくる作家・画家だった。ヨット部OBやOGではない例外会員である。ある小説の新人賞を受賞した直後に、それまで勤めていた南青山のデザイン事務所が香港に移転することになり、同行移住を拒否して日本に残った。近所を歩く安西水丸さんを時々見かけた。普通すぎる雰囲気が逆に特別に見えた。日本語と英語両方の肉声もすぐ近くで聞いたこともある。安西は本名ではなく祖母の姓である。昔、先祖が安房の西側に住んでいて安房西と名乗っていたのが長年経つうちに安西に縮まったのだそうである。子どものころの南房総・千倉での生活、本の装丁を手がけたときの村上春樹の裏話、執筆に使っていたという鎌倉の住まい、について尋ねてみたかったのだが、過剰に遠慮しているうちに一度も話しかけることができないままになったのが残念でしょうがない、と酒が入るたびに嘆く。
 あはーん、それぐらいの後悔、誰にでもあるよ。オレなんか、特に急いでもいなかった時に、地下鉄の方が便利だって分かっていて、別にその乗り場から乗る必然性がまったくなかった都バスにほんの出来心で乗ってしまったことがあって、そのバスが発車した瞬間に、ロケバスから歩道に降りる新垣結衣を見かけたことがあるぞ。
「ガッキー、ガッキー!!」
(大丈夫でせうか、私は。何回目だ?)
 ちなみにその都バス運転手は、「うんっ」と鼻で息をして車内にメッセージを送った。
「ご乗車の皆さん。私は今この瞬間退職します。あとは野となれ山となれ」
 さっさと職場放棄を決め込んでバスを乗り捨て、両手を挙げて「ガッキー!!」と叫びながら、ロケバスから機材を運び出しているドラマ撮影のクルーの方に走っていった。
 おいおい、ドア開けてから行ってくれよ。
(それじゃ競争相手が増えてしまうでしょ)。
 このクリエーターは、息子たちがひどいアトピーになったので、自分が結局中退した美術大学への進学以来ずっと住んでいた東京での狭小なマンション暮らしをやめて、660坪もの広い土地を買って引っ越してきた。この人間とは札幌市内の放送局での仕事で知り合った。医師等でない会員になれたのは、例外規定の適用を受けたからである。世の中は狭く、私の兄の一橋大学時代の知り合いであった。ちょっとやりにくいでござる。何となく気分が萎える。兄は暴君であるから。そしてその娘もである。有力者の娘は子どものころから当然のように女王様然した態度を平然と取る。弟は辛いよ。具体的にいつ、どこで、どのようにして知り合ったのか詳しくは聞けない。危険な予感がするじょ。

第128章 小樽で開業した医師 https://note.com/kayatan555/n/n2047f72e7e22 に続く。(全175章まであります)。

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