『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第138回 第104章 初夏以降の札幌 (後半)
幼稚園年長組にとって、目前に迫っている小学校入学は一番の話題である。ボクも特注のランドセルが届けられてきた日は、うれしさで、その晩は寝付かれないほど興奮した(そのため、生まれて初めて晩酌を経験した。おっとっとっと)。そう言えば、ボクが赤ん坊のころ、父の昔使っていた旧いランドセルに入れられて笑顔を見せている写真がある。その後体は成長したのであの写真は2度と撮れない。シャッターを切った父ももういない。
4月の入学を前に1日体験入学という行事があり、子どもたちは主にお互いに静かにガンを飛ばし合っている母親に連れられて、指定された小学校の校舎に足を踏み入れる。父親が行くこともある。廊下をすれ違う卒業間際の6年生はしっかりした大人のように見える。
ボクの行っていた幼稚園のことだが、卒園と同時に札幌からはうんと遠い「さがみはら」という街に引っ越して行くと言っていたリュドミラちゃんという名前のロシア人の女の子は、カザンに住むふたりとも大学名誉教授の祖父母からの送金で、両親と一緒に国に帰省していた時にダーチャの菜園でペットと一緒に撮った写真を転写したランドセルを買ってもらった。そのパパが獣医学部の准教授に採用されて、それまで所属していた北大の動物医療センターから転属して行くのであった。そうか、ボクが初めて日本文字でもローマ字でもないあの奇妙な文字を見たのはあのころだったんだ。
「ダー、ダー」
朝とは違って時間に余裕のある下校時に、二人揃ってリコーダーを吹きながら歩いて行く真面目そのものの表情の女の子たち。ドライブスルーのマイクに忍び足で近づいて、死角から手を伸ばしてメニューの上に風船ガムを貼り付けて逃げていく意図不明の男子集団。
どの季節とも判然としない、まだ梅も桜も咲かない時期に小学校に上がった緊張した面持ちの子どもたちも、桜の花びらが散り敷いて葉桜に移り行くころには少し学校生活に慣れてきている。それどころか、一部の子たちは慣れすぎてしまっており、まるで教室を、遠方に住んでいる方の祖父母宅の居間と心得ているかのようである。滞在中、その家の中は子どもに好き放題にされてしまうのだ。担任教師も、受け持ちのクラスの児童たちのキラキラネームを含む名前を、社会における言語秩序を嘲笑するほどひどい当て字の漢字を含めて全部覚え切り、さらに、激越なるクレーム対策に気を遣わなければならない保護者の顔ぶれも否応なしに頭に叩き込まれるころである。
「は? その先生なら、ただ今授業中です」
「夜の7時過ぎに小学校で授業やってるってか、ジブン? 何の補習じゃ、われ! 夏期講習? 予備校か?」
この先生は、悲愴な表情で黒板に向かっているかもしれない。
「しまった、この解き方じゃ答えが出ない。この場をどうやって切り抜けようか? どろん」
冬眠中に運良く死にも殺されもしなかったシマリスたちもまた、森の中や農地や市街の隣接地で凍傷にもならずに地上に現れ、誰にも守られずに、自然界という恒常的殺戮現場での一瞬も待ったなしの活発な生存競争を再開する。老衰で家族に見守られて息を引き取り、顔に白布をかけられる幸運や贅沢はシマリスたちには存在しない。一匹一匹が、あの俊敏な小さな体とコンパクトな頭脳そして大きな瞳でガチで宇宙と対峙して生き、戦い、死んで行く。他のすべての生物たちもそうである。
一見平穏そうに見える植物界も例外でない。せいぜい100年ほどしか生きられない我々人間の目には到底認識できない超スローモーションの死闘が、地下や水底深くに埋まって潜んでいる種子や胞子も含む競争当事者すべての間で続いているのである。例えば、樹齢5,000年余のレバノン杉が1本勝ち残るまでに周りにどれほどの敗残者を生んだのだろうか。側をどれほど多くの民族や行商人や兵士や難民が通り過ぎ、国境が何回変動したのだろうか。見渡す限り荒涼・広漠たる灼熱の大地の土塊(つちくれ)は、かつて粗発酵の葡萄酒をなみなみと注いだ土器(かわらけ)だったのか、何だったのか、『ルバイヤート』は教えてくれるだろうか。
第105章 起きるべきか、起きざるべきか https://note.com/kayatan555/n/nc139328d0948 に続く。(全175章まであります)。
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