『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第190回 第156章 京の親戚たちどすえ
女の子たちふたりは手をつないで書斎に入って行き、下の子の方はお爺ちゃんの文机に向かって正座して硯で墨を磨り始める。まだ手の力は弱く、知っている文字の数も少ない。新雪のような真っ白い光絹のリボンが軽く揺れ続けている。赤いイチゴのヘアゴムが少しずれている。日の当たる方の広めの坪庭から障子と石英ガラス越しに京の都の柔らかな陽射しが、張り替えてまだ間もない硬めの畳を淡く照らしている。日陰の方の狭い庭から気温差によりゆったりとした風が室内を流れてくる。真新しいイ草と墨の匂いが鼻腔を刺激する。この硯は札幌のうちの硯と同じ石を切断して制作した銘品で、側面の化石の断面が一致している。このコも硯が原因でイジメに遭わなければいいが。習字の授業が始まったら、学校の指定品を使った方が無難だろう。
母親が切ろうとすると、娘べったりの父親が立ち上がって体を左右にひねって、「そんなん、ぼくちん、いやーん、いやーん、どっせ」と、ぐれる素振りを見せるので切れない豊かな髪は、舞妓の結髪師を長年務めてきたお婆ちゃんに、「神楽坂の出版社から写真のモデルを見つけるように頼まれたから、今日一日だけお願いね」と「二百三高地髷・改」にされてしまっている。あの柔らかくふっくらとした黒髪が漉し餡なら相当重たいだろうし、粒餡なら大仏の仲間入りである。コテを温めた炭火は、まだ芯が赤く見える。
お爺ちゃんの方は別の部屋に忍び足で入っていって、洗濯済みでアイロンをかけたステテコに微かに香を焚き込んでから、部屋の角に低めに吊した。
「これで良し!」
そうしておいて、部屋の反対側の角から小走りに走ってきて、丹田にぐっと力を込め、「えいっ」とかけ声をかけて跳び上がり、バック転でそのステテコに両足からすっぽりと嵌まり込んだ。シュッ。
(元体操部なのだ)。
「今宵は昔のダチたちと気楽に酒盛り三昧、五合酒(ごんごうざけ)。出撃準備完了!」
パチパチパチッ。お頭、冴え渡った技、お見事でござる。
ふたりの孫娘たちは、きっと後で、お爺ちゃんほどは甘くないお婆ちゃんから、おまん屋さんまで付き合うように誘われるだろう。京大理学部を出て家を継いだ若主人が、細面ながらしっかりとした筋肉質のイケメンで、しかも客の方を流し目で見遣るのだ(錯誤)。
「この子たちが、どうしても葛餅食べたいって言うから」
「オレは組合の寄り合いに行ってくるよ。ちょっと遅くなるかも知れないな」
社会経験に乏しいこの小学1年生には、押し付けられた1世紀以上も前の髪型に反発するほどの動機はない。畳の上で足が痺れてきている。
「おれいじょうかくの」
古風な風情の少女は習った通りに細い筆を立て、和紙の便箋の上を縦に緩急をつけて走らせる。習字は紙の上のフィギュアスケートやあ。文鎮は、気温が体温を超える暑さの葉月も、また、京都を愛する方々がこのような形容を容認していただけるかどうか分からないが、いけず冷えの如月も(こんなん、よう許しまへんで)、『車輪の下』(Unterm Rad)で間欠的にやってくる重荷に忍の一字で耐えていた旧京都市電のレールを水羊羹の形に切断して研磨したものである。どこの路線でどれほど多くの乗客の人生を下支えしていた金属片だろうか。舐めたら、あかんえ。
「きょねんのめろんおいしかったよ。ありがとう。うちがおよめにゆくかむこどのをもらうまでまいとしおくってください。おたのもうします。ないしょだけど、おねえちゃんはもらいてがないかもしれないよ。おばあちゃんがいつもそうゆうてます。だれにもゆうたらあかんえ、とゆうてます。でもこれはおてがみにかいてるんやからゆうてないとおもいますねん。ぺこり」
(わー、ぺこり、までかいちゃった。かんにんえ)。
そのまだ一部乾いていない素直でたおやかな筆跡は、一部の専門職の人間たちの書き散らす文字より、よほど読みやすい美しさである。ひらがなは風の流れを視覚化した文字だ。
こうぞ みつまた すいたかみ
すずり ふるでら かねのおと
すると、斜め後ろで日舞のお師匠さんのような正座の姿勢で首をゆっくりと傾げ、藤娘の手付きをおさらいしていた上の子が目をつり上げ、足の痺れをかばいながらこっそり立ち上がる。あやすい不穏な動き。歴史は往々にしてこのようにして動いてきた。(もしも痺れがひどくて、硯の墨を波立たせながらとんとんとんと片足で跳んでいったら、にわかに始まる電線音頭。Everybody now!)。
「あー、おねえちゃん、せんいっぽんたした!」
ゴ〜ン。
第157章 展開し始めるふたりの人生 https://note.com/kayatan555/n/neb521b9496f7 に続く。(全175章まであります)。
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