『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第199回 第165章 共同事務所開設
その後、丸原浄一弁護士は、円山公園を背にしているアメリカ総領事館近くに、私の母校のサファイア高校と比較されることの多い札幌ルビー高校の弓道部時代からの「ダチ」と法律・弁理士事務所を設立した。(小さな声で言っておく。兄ちゃん、おめでと。音を消して口パクで言っておく。大きな面すんなよ。あっ、まずっ。兄は遠隔空間ワープ読唇術ができるんだった)。
同じコランダムでもサファイアは青いため「青玉」(せいぎょく)だが、ルビーの方は赤いので「紅玉」(こうぎょく)という。それで兄の母校の別名は札幌紅玉高校(さっぽろこうぎょくこうこう)となっている。まるで校庭でリンゴを栽培しているかのような名前だが、校名を短くすれば、札幌紅高(さっぽろあかこう、または、さっぽろべにこう)となる。私が青高、兄が紅高なのである。サファイアもルビーもモース硬度が9もあるため、ボクも兄も頭がカチンカチンに硬く、そのせいで、ボクらは何かと頭と頭がごっつんこする兄弟なのである。
高校を出てそれぞれ違う都市の違う大学に進学して以来疎遠になっていた期間に弁理士資格を取得していたこの旧友の華道家・建築家の親戚がバーモント州に移民するというので(リンゴと蜂蜜が好きでカレーなる転身? さあねえ)、その海外の建築雑誌にも紹介されたほどの優れたデザインと機能性の4階建ての事務所を相場より相当低額ではあっても税法上ぎりぎりで容認される範囲内の親戚割引で借りることができることになった。兄は思った。家主がアメリカ東部に行って物理的に離れてしまっているなら、家賃なんか踏み倒したろ。
すぐ裏は公園の芝生と大木群が始まっている箇所であり、都会的な緑の一等地にある。至近距離にある市営地下鉄東西線円山公園駅からは、たった5分で大通に到着する。札幌で円山地区に住むメリットは大きい。そこに全面ガラス張りで、屋内に何種類もの(亜)熱帯植物を育てて真冬でも花を咲かせ、壁際に(愛の)化石や鉱物もずらりと並べた兄とその親友の新天地が誕生したのだ。短径12cmもある黄色の硫黄結晶はパイナップルの中身のように見える。ただし、6頭もいる犬も引き継ぐという条件であった。ふたりは嘆いた。そういうの業務の支障になって困るんですけど。誰か全部きれいに盗んでいってちょ。代金は当方の事務所の指定口座に振り込んで。
このお荷物集団との初対面の時に、早速事件が起きた。事務所共同経営者となった兄が4階のガラス天井の近くまで伸びている名前を知らない木々を見上げているとスマホに着電があったので、上を見たまま耳に当てて話し始めた。相手がインドネシア政府の高官と名乗ったので、「スラマット・パギ」と挨拶をした。英語に切り替えての電話の用件は、高額報酬が期待できそうな日本法のコンサルティング依頼と判明しつつあった。頭の中に甘酸っぱい感情が芽生え、ドアを羽のように上げて乗り込む高級スポーツカーの助手席に美女を乗せてドライブに出かける妄想が広がりかけた。ところが、新調したばかりの高級スーツの裾に異変を感じ、夢の泡は弾けて消えた。脛に異物感があり、見下ろすと2頭の大型犬が相次いで片脚を挙げて法悦に浸っている最中であった(見逃して紅?)。うえーん。一種のマウンティングだったのだろうか。神経を集中しなければならない重要な通話が続いていて、しかも両方の脚をほぼ同時に攻められたので、防ぎようがなかった。靴も台無しにされてしまった。
ドッグフードだって頻繁かつ大量に買って来なければならなかった。随分いろんな種類があるんだね。
この先住民たちの朝晩の散歩が大変になった。ふたりで当番の曜日を決め、担当の日には出勤してくるとすぐに上下ジャージに着替えて、隣接する公園の中を通って西に向かい、複数の神社の境内に入ったり前を通ったりして、動物園前まで往復するのがノルマであった。他の方角はいずれも市街地コースとなり、6頭も連れて歩いたり走ったりしなければならないため無理であった。どうしても、と言うのなら、ローマ時代の戦車に乗って衣裳もそれに合わせて、雪原を走る犬ぞりのようにイヌに引かせて車道を走らなければならなかっただろう。映画で見るようなああいう乗り物は、道交法上どのような扱いなのだろうか。判例を調べても見つからなかったので、判断が難しいところである。
一度兄に代役を頼まれて行ったことがあった。その日は午前10時から高裁で重要な案件が予定されていたからだ。一部外国の特派員を含むテレビ局各社などマスコミがエース級の記者を送り込んできて特別の取材体制を敷き、周辺を数台のパトカーが警戒し、数基のドローンがベーゴマのように空中で火花を飛ばし、ビルの角という角からは家政婦たちが顔をそっと覗かせていたほどである。
「わたし見たんです」
ちょうど私は病院の方が非番だった。犬たちは数秒間私を見上げていたが、特に逆らうこともなく出発した。人間が誰であれ、犬は外を走れればそれで満足なのだろう。
ワン
ワン
ワン
ワン
ワン
ワン
事前に兄から一応説明は受けていたが、実際にやってみると、コースが傾斜地であるため運動負荷は大きかった。帰りに坂道を下っていて勢いがつきすぎ、天狗の団扇のように大きな濡れた葉で滑って転倒してしまい、犬たちが寄ってたかって私の顔を嬉しそうに舐め始めた。(「舐めンなよ」)。
6頭分のリードを両手でまとめて持っているので、柔道の受身が使えず、ひどくバランスの悪い転び方になった。骨折も捻挫もしないで済んだが、手首と腕時計の間に生乾きの泥が入り込んでしまった。
第166章 円山、藻岩山、創成川 https://note.com/kayatan555/n/n518d361b899e に続く。(全175章まであります)。
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