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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第108回 第84章 浮かれすぎて冷や汗 (後半)

 私が選んだのは上映開始後興行成績が上がっている作品だったのだろう、大きめの方の「シアター」が割り当てられていた。その広めの内部空間で、私の周囲は空きがゼロで座席は活版印刷の活字のようにびっしりと埋まっていた。そうそう見かけない混み合いぶりであった。アンチモンでしたっけ、使ってある金属? どうやって合金の比率を編み出したのかねえ。天才っているねえ。
 少し暗闇に目が慣れてきていて、私の席の両側は下校時にデートをしているらしい高校生カップルと、今時、ほとんどの人々の頭の中に存在していないであろう落雁を折っては口に運び、その度に粉末で咳き込みながら、「奥さん、お茶ない? 私喉渇いてきた」などとささやいている計画性のない妙(な年)齢の女性とその仲間2人の3人組であることが分かった。
 薄暗がりに乗じて頭の中でオオカミの遠吠え「和音、和音ー」をしている男子生徒の方が女の子の制服のポケットに手を突っ込んで、手の甲の方で脇腹に微かな振動を与え続けているらしき隠微な気配があり、その勢いは次第にエスカレートしていった。女の子の方の「ちょっとお、やめてよっ」というごく小さな声が周囲の観客たちの地獄耳に入った。国によっては、上映中にスマホを掛けたり、大声で感想を言い合ったりする文化もあるようだが、わが国ではそのようなことはまずあり得ない。みんなお行儀良くスクリーンに見入っている。そのため、この二人の高校生の震度0.2ぐらいの動作は周囲の観客たちにも何となく伝わっていった。私は決して行動に移しはしなかったが、刀の柄に手をかけたまま、内心である決意を固めていた。
「おい、男子生徒、悪ふざけ止めないのなら、江戸時代のお白洲のようにしてドライアイス五貫目ばかり大腿骨の上に乗せてやろうか。うりうり、これでどうじゃ。お望みならもう一貫目重ねて進ぜようぞ」
 反対側の座席のおばちゃんの落雁は週刊誌よりも大きな塊のようだった。何か他の食べ物と勘違いして恍惚となっていたのかも知れない。塗り壁とか。上演中何度か急激に前屈みになって咳払いをして、指を口の中に入れたまま前歯の内側にこびりついたその落雁を剥がそうと格闘していた。凝った浮き彫り模様の落雁なら、桜材で型を彫るのに宮大工並みの技巧が求められるだろう。この年齢不詳の(と言って若くないことは確かな)女性が祈祷をするつもりか思い余ったかのように両手の人差し指を同時に口に突っ込んだ時は、トドの雄叫びを想像してしまった。塗り壁と言えば、水木しげるは妖怪の世界を描く天才であった。しかも愚痴を公言しなかった。大変な苦労を重ねた人物としては希有なことである。
 こうして、どうせすぐ本編の上映が始まるのではなく、10分ほどは予告編だの結婚式場の案内だのを見せられるのだから、小用を足しておくぐらいの時間は、映画館のスタッフにチケットを見せて指定のシアターに向かって通路を歩いている時に、ちゃんと残っていたのだ。こういうのを後知恵という。役に立たないのだ。こういう時に、横に小料理屋のちんまりした女将タイプのお節介な奥方がいれば、「あなた、今すぐおちっこ行ってきなさい。まだ十分間に合うから」「はーい」というやり取りになって、苦境に陥ることは事前に回避できたであろうが、自分の失策を他人のせいにしてはいけない。
(「あら、わたしって他人なの? そういう人なの、あなたって?」)。

第85章 苦悶の映画鑑賞(前半) https://note.com/kayatan555/n/n13a2deeaa8c7 に続く。(全175章まであります)。

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