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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第123回 第93章 なぜロシア語に惹かれるのか (後半)

 訳を付ける時は、日本語にまでしてしまうと何だか甘ったるくなって興醒めなので、基本的にドイツ語に訳すようにしている。頑張ってフランス語に変えてみることもある。ロシア語学習やこうした翻訳の作業の際は、紙のノートを広げ、万年筆で筆記体や楷書体のキリル文字、ローマ字、日本文字を書き込んでいる。普段はデジタルばかりの生活なので、このような小学生時代から、いや、文字を覚え始めたのは幼稚園時代だったから、そのころからずっと慣れ親しんでいた手書きの習慣を暫時取り戻すのも楽しいものである。
 私が東京での学生時代に一時的に交際していたアシュケナジムのユダヤ人だけがきっかけではなく、ローマ字とは異なる文字体系の不可思議な魅力と、堅く重たいライ麦パンのような文学世界、そして日本人の多くよりずっと快活で行動的なティーンエージャーたちの悪戯っぽい笑顔にも強く惹かれて始めたのが私のロシア語である。
 外国語学習成功の要諦は、切実さ7分、憧れ2分、慣性1分である。切実さとは、受験や仕事、婚姻等でその外国語ができないと人生が成り立たなくなる度合いを指す。私にとってのロシア語の切実さは、多分に芸術的、文学的、ミーハー(森高千里)なものであり、憧れの要素と融合している。私が主に力を入れてきたドイツ語、英語だけでなく、並行してかじっているフランス語、イタリア語、オランダ語、スウェーデン語までの言語群は大雑把に言えばお互いにかなり似通っている。ところがそれらに対して、ロシア語は文字の外観からして違っているのである。文法が難解である。だからこそ、ロシア語で綴られた文を読みたいのである、あのメロディーを聴きたいのである、あの言語で脳を満たしたいのである。それ故、きっと私のこのロシア語学習は長続きするだろう。熱しにくく冷めないのが私という人間なのだ。
 この言葉はやたらと難しく、覚え込まなければならない項目も膨大だが、逆に時にはフランス語より杜撰ともいえるほど簡便な表現で意味が通じてしまう場合もある。一生十分な学力には達しないだろうが、それでも、あのキリル文字で彩られた文法が自分の脳に入り込んできていて、翻訳ではなしにロシア語自体が少しずつ理解できるようになって行き、ロシア語で考えられる範囲が広がって行くのは無上の歓びである。外国語学習は、シナプスの陣取りゲームやあ。それだけでなく、学習の道具として使っているドイツ語の力を底上げすることにもなっているので、なるべく自由時間にはこの本を開くように心がけている。
 深夜目覚めてしまい、ガウンを着て寝室から隣の書斎に移る時にも、このロシア語学習を「短時間だけ」、と念じながら再開することがある。ポグロムの悲惨な体験をあのコの祖父母や親戚たちはしていたのだろうか、と一瞬外国語大学時代を思い出す。真夜中は別の国だ。午前2時43分、私は医師でも息子でも孫でもなく、親元と慣れ親しんだ北方の気候帯を遠く離れて一人暮らしをしていた、男女の危うい接触・非接触に翻弄される単なる若き一外国語学徒に戻るのである。
 フランクリンは温まった寝台が好みではなく、4台も並べておいて、1台が温まってくると別の寝台に移ったそうであるが、私にはそのような趣味はない。それに、何台目かに変なおじさんが潜んでいたりしたら心臓に悪いではないか。

第94章 左ページのロシア語 https://note.com/kayatan555/n/n9b74fd7dd2da に続く。(全175章まであります)。

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