必要な友達は必要なタイミングで現れる
先週の雨降る金曜日、大磯うつわの日という大磯で行われている器市に友人と行ってきた。
この友人は中高時代の友人にあたるのだけれど、実は中高の六年間、彼女とは一度も口をきいたことがない。同じクラスになったこともなくて、共通の友人は何人かいたものの、どんな子なのかは全く知らなかった。
仲良くなったきっかけは数年前、私がInstagramで投稿したストーリー。
当時「進撃の巨人」にハマっていた私が、それにちなんだ台詞をつぶやいたところ、たまたま繋がっていた彼女が食いついてきてくれたのだ。今となっては、日常的にLINEでやり取りをし、定期的に子供も交えて遊ぶ仲になっている。
正直、この年でこんなにも親しくなれる友人ができると思っていなかった。年を重ねるにつれ、一人、また一人と友人と疎遠になっていたから。かつて毎日のように大学で顔を合わせていた友人たちとも、もう滅多に連絡も取らなくなってしまった。
毎日のように大学で顔を合わせていたときは、共通の話題がたくさんあった。でも、大学を卒業してから一気にみんなの人生が多様化したのだ。バリキャリとして仕事に生きている友人たちと、子供が生まれて家族の時間が大半を占める私とでは話が合わなくなってしまうのも当然だ。
そんなわけで、結婚、出産、コロナ、主人の転勤などを経て、気づけばあれほどまでに仲良かった友人たちと距離ができていた。そして、友情って、こんなにはかないものなんだ…と一番落ち込んでいた時期に突然現れたのが、最初に話に出した友人だ。
彼女とは気が合う。お互いアニメ好きで、好きな服や音楽のジャンルも一緒。実家も近くて、子供の年齢もほとんど一緒。「もっと早く出会っていれば!!」と思うくらい、仲良くなれたときは嬉しかったけど、頭では分かっている。もっと早く出会っていても、多分ここまで仲良くなっていない。今、自分が置かれたこの状況で出会ったからこそ、仲良くなれのだ、と。
宇多田ヒカルのForevermoreという曲の中で、
という歌詞がある。私はこの曲を初めて聴いたとき、「きっと自分の友達は入れ替わらない」と思っていたのであまりこの歌詞にピンときていなかった。でも今ならなんとなく分かる。宇多田ヒカルが言う通り、友達は確かに入れ替わる。「いなくなる」のではなく「入れ替わる」のだ、と。
バスケの試合とか、他の競技でもいいけど、そういうものを考えてみると分かりやすいと思う。私たちは常に、自分の人生というゲームをプレイしている。今、自分とともにコートでプレイしている仲間たちが、今の自分を取り巻く友人たち。疎遠になっている友人たちは、ベンチで控えている選手。ゲーム状況によって、必要な選手は入れ替わるもので、一度ベンチに戻った選手もいつまた交代で戻ってくるか分からないのだ。
人生は不思議なもので、私に新しい友人が現れたように、自分が必要としている時に、そのとき本当に必要としている人は現れる。だから、少なくとも「今」の私の人生に必要なのは、かつての仲間ではなくて、今、私を取り巻いている友人たちなのだ。
既出の友人や、息子の幼稚園で仲良くなったママ友、主人を通して知り合った友人、前の会社の同僚、そして一部、昔からずっと変わらずに仲良くしてくれている数少ない親友たち。まだそこまで親しくない人でも、今自分のコート上にいるのであれば、かつての友人たちとのような温かい関係を、今後築いていくことができるかもしれない。
そんなことを考えていたら、なんだかしっくりきて、控えの仲間が増えていくことも悪くないかもな、と思えた。今まで自分とともにプレイしてくれた控えの友人たちも、今、同じコート上でプレイしてくれている友人たちも、みなその時その時の自分に必要だった大切な仲間には変わりないのだ。
これからも自分の人生のゲームのコート上の友人は入れ替わっていくかもしれない。一部かもしれないし、全員かもしれない。いずれにせよ、一度でもコートに入ってきてくれた友人たちへの感謝を忘れず、これから入ってきてくれるまだ見ぬ友人たちとの出会いにもワクワクしながら、今、目の前にいる大切な友人たちとともに、自分の人生というゲームをプレイしていきたいと思う。