だらだら書いてしまった短編①/'22.3.13-’22.4.29
「考えるのを止めるな! もし止めれば、誰かに使われるだけの人生になるぞ」
私はしばしば、上司からこう諭されることがあった。
考えてみればたしかに、私の勤務内容は、上司や先輩から――最近では後輩からも、指示なり要望なりを出されては、それを叶えることしかしてない気がする。規模は大小様々だったけど、こんな事をしている間にかつての同期は出世していて、私は留まってばかり。
変わらなきゃいけないとは思っている。けど、忙しさに駆られて、変わるための何かをやろうと思うよりも先に、疲れや虚無感が私を蝕んでくる。
「う、うーん……」
気がつけばこの日も、私は寝支度もままならない格好で、窓越しの光に晒されていた。
敷きっぱなしの布団の上に独り。辺りを見回せば、放られた昨日の荷物に数日前の食事のごみと洗濯物の山がどっさり。
見るも無惨な状態を何とかしようと身体を起こす……ことはなく。近くにあったスマートフォンを手にして通知チェック。そこから派生してSNSを見てしまえば最後、下から上へ画面をなぞる指が止まらない。
「お腹空いたな」
そう呟いて何気なく目にした画面の左上は、お昼時をとうに過ぎていることを知らせていた。これが目が覚めてから初めて身体を起こした瞬間だった。
腹が減ってはなんとやら。空腹を満たす為に冷蔵庫を開けたのだが、中身は無い。連日食事を買って済ませてたのだから仕方がないとはいえ、空っぽの庫内を目の当たりにした時の気持ちは、例えるなら、晴れてた空が急に暗雲に覆われたような感じだ。
「仕方ない。買いに行こ」
暗雲を払う勢いで冷蔵庫のドアを閉め、身支度を整えた私は玄関へ。ドアノブに手をかけ、捻り、押し開けた刹那、巻き上げるような風が隙間から侵入。体温と同時に外へ出る気力をさらわれて、私は外へのドアを閉めた。
こんなに寒いなら寝ていた方がマシなのでは? なんてことを考え始めると出てくるのはため息だ。足下に向けて、はあ、と息をついた時。さっきまでこの部屋になかったものが目に留まった。
風に乗って入り込んだのだろうか。恋した少女の頬みたいな色をした、白い花弁が一枚。
瞬間、私の頭の中で一つの情景が浮かんできた。
「そういえば、あそこはまだやってるのかな……」
何かを思い立った時ほど行動の早いことはない。今私は、一枚の花弁を親指と人差し指で摘んだまま、路地を歩いている。歩き出してしまえば自然と体温は上がってゆくし、日向を意識して歩けば始めに感じた寒気が嘘のように思えてくる。そして、歩けば歩くほど、この一枚と似た花弁がひらひらと舞い降りて、路地も花弁色に染まっていった。
そうして行く路が花弁に敷き詰められた頃。私が先程思いを馳せていた場所に辿り着いた。ブロック塀で隔たれたその場所に足を踏み入れれば、“湯”と書かれた暖簾を垂らす古風な建物が現れる。のっぽな灰色の煙突からもくもくと蒸気を上げているので、変わらず運営されている事が分かる。
そう。ここは“銭湯”。越してきた頃からこの場所は存在しており、社会人になる前は週に何度も通っていた。だが、仕事をするようになってからは――通勤でこの路地を通らないことも相まって、今日まで一切利用していなかった。なので現存が分かった私の胸は、嬉しさと懐かしさが込み上がっていった。
そんな心境に浸っている私の目の前を、花弁が通過する。出処を目で追うと、立派な桜の樹がこれでもかと花弁を散らしていた。そしてそれは、摘んでいた花弁と一致していた。
「やっぱりここの桜だった。全然変わってない」
大きく息を吸う。春一番に湯けむりが混ざったここの空気は心地よい。この感覚を味わえただけで充分満足だが、ここまで来て道を引き返すのも違う気がするので、私は暖簾をくぐった。
いらっしゃい、と声がする。声の出処に目を向けると、受付カウンター越しに老婦と目が合った。
「女の人は、こっちに利用料を入れてちょうだい」
目尻にこしらえた皺と、垂れた頬、白髪をまとめたお団子ヘアの彼女が、あの頃と変わらない笑みを浮かべて言う。私は軽く会釈してから、利用料を入れて脱衣所へ。支度を済ませて、浴場への戸を開けると、タイル張りの明るい空間が広がった。
手前から奥へと整列された蛇口の数々の先に、大きな浴槽。ここも変わってないなと思いながら、空いている蛇口の前に座った私は、身体を洗い流すために蛇口を捻った。きゅっきゅと鳴る蛇口の音も、始めに出てくる冷水も、やがて出てくる熱めの湯も、ああこんな感触だったなと記憶を刺激してくれる。そうして身を整えた私は、いざ、浴槽へ。
「んあーーーーーーぁァ……」
全身に駆け巡った湯の熱さでつい声が出てしまった。でもこの熱さが心地よく感じてしまうのが不思議で、この湯加減のおかげで、何度、私の思考のとっ散らかりようを整頓してくれたことか。
「私、何で仕事してるんだろ」
私は雑用をするためにあの職場に就いたんじゃ無い。私はあの職場でだったら成し遂げられることがあると思って選んだんだ。……そのはずだ。
「成し遂げた事って、あったっけ……」
あの子と比べて、あの人と比べて、あいつと比べて、何かを成し遂げた事ってあった? 皆から拍手を浴びるくらいの功績を残したことはあった? 毎月掲示される成績表に私の名前が載ったことはあった?
就職してからここまでで、能動的に仕事に打ち込んだ事、あった?
……こんなに詳しく考察したことは、今までなかったと思う。
「だから私は、”誰かに使われるだけ“の――」
あぁ。頭がふらふらしてきた。これ以上この場所で考察するは止そう。
風呂を出て、足取りがおぼつかないながらも浴場から出て、どうにか服を着た私は脱衣所を出た後、吸い込まれるように昼光色の灯りの下へ。そこに手を伸ばしてガラス戸を開いた私はひとつの瓶を取り出して、紙でできた蓋を真上に上げた。空いた飲み口からは見えるのは、自然の薫り漂う白濁としたあの飲み物だ。これを思い切り喉に流し込めば。
「――ぷはあ! お風呂の後の牛乳は生き返るぅ!」
私の中ではこの時が一番の至高で、一番意識が冴え渡る瞬間だと思う。
「お客さんダメダメ! 飲むよりも、お代が先だよ!」
「あ。ごめんなさいおばあちゃん。今払います」
久しぶりの利用だった為にうっかりしていた――ここは、今のような飲食や身の回りの物を借りる時等は先に料金を支払わないといけない。
「まあ、初めて使うなら分かりにくいわよね。ごめんなさいね?」
「私こそ、久々に来たのでルールを忘れてました。すいません」
「来たことあるのかい? ……おかしいねぇ。欠かさずここの番をしていたから、来たことある人の顔は覚えてるのに」
私を思い出そうとしているのか、頭を傾げ、一所懸命に唸っている。だが、時待たずして彼女はすやすやと眠りこけてしまった。
考えてみればそうだ。越して間もない頃にここを訪れた際、初利用であることを勘付いて隅から隅まで説明してくれた彼女は、その日から数週間経った二度目の利用の時、暖簾をくぐって目が合った瞬間に初利用の日付をぴたりと言い当てたのだ。――この時を思い出すと、身体がその驚愕さを覚えているのか背筋がぞくぞくしてくる。それほどにこのおばあちゃんは、近所では覚えも気前も良いことで有名で、老若男女問わず親しまれていた。
歳を取ったからと蔑ろにしていたが、牛乳を飲んで頭が冴えた今なら分かる。こんなおばあちゃんが、久々に暖簾をくぐった私へ微笑を浮かべるだけだったというのは、過去の彼女の応じ方とは大いにかけ離れていたと。こんな大きな変化に、何故今まで気付けなかったのだろう。
「あら? もしかして――!」
すると、おばあちゃんよりもハキハキした声がカウンターから聞こえてきた。現れたのはこのおばあちゃんの娘――皆からおかあさんと呼ばれている女性だ。私の姿を見るなりその人は目を大きく見開きながらどたばたとカウンターから出てきた。
「やっぱり! 随分久しぶりじゃない! 大学卒業してから何年経った!?」
「お久しぶりです。もうすぐ五年が経とうとしてますよ」
「つまり五年も私にした約束をすっぽかしてたワケね?」
全くもう! と少々垂れ気味の頬をおかあさんは膨らます。少女漫画のヒロインみたいな口ぶりや振る舞いは健在のようだ。
それにしても、このおかあさんとした約束は何だっただろうか。
「その顔、忘れちゃいましたって顔ね? 仕事が落ち着いたらまた来るって約束に決まってるじゃない!」
「ああ……すいません。忙しさに駆られてすっかり」
「まあそうよね。この年代で忙しさに駆られてないほうがおかしいわよ。むしろ期間が空いたとて、約束通りもう一回来てくれて、私とても嬉しいわ」
「私も、会えて嬉しいです。これからも顔出します」
「是非お願いね?」
と言いたいところだけど、と私に背を向けるおかあさん。
「ここ、今月いっぱいで閉めるの」
彼女の一言は私の温まった身体を冷やしていった。そんな情報など、ここに入る前も、浴場にも、今居るこの空間にもどこにも無い。
「そんなことさせるもんか!」
その時、眠っていたはずのおばあちゃんから怒号が飛んだ。
「このお店は私のだよ! どうして勝手に終わりを決めるんだい!?」
「だってお母さん、もう充分頑張ったじゃない。この銭湯を始めて五〇年も経ったのよ?」
「何言ってるんだい! 桜の咲いた大安吉日の今日、やっと開けたこの店をこれから切り盛りしていくんだよ! そんな時に縁起もない話をしないでおくれ!」
「だから! その日からもう五〇年以上経ったの! それにお母さん――」
「私は、あんたのお母さんじゃないよ! 私の娘はまだこんなに小ちゃいからね。それに私の娘だったら絶対にこんな話はしない! ずっと応援してくれるはずだよ!」
「お母さん……」
「話は終わりかい? ならもう帰ってくれ」
そっぽを向いてしまったおばあちゃんに、頭を抱えるおかあさん。この銭湯を開業したてのように言い、自身の娘のことを赤の他人の如くあしらったおばあちゃんは、見るも明らかに“変”だった。
「ごめんなさい、見苦しいところを見せちゃって」
こう言ったおかあさんが申し訳無さそうに笑う。こんな時に掛ける言葉が、私には思いつかなかった。ただ、どうかそんな顔をしないでほしいと願うばかりで。
だってこれは、おばあちゃんが長い年月を経た結果で起こったことだからだ。おかあさんは何も悪いことはしていない。
「私こそ、こんな事になっていたなんて知らなくて、ごめんなさい」
「もう、どうしてあなたが謝るの? あなたは何も悪くないわ。時が流れればこういうことになるわよ。人も、環境も、時が流れれば変わってゆくものなのよ」
私に向かって語る一言一句は、どこか彼女自身に言い聞かせているようにも聞こえた。言い聞かせて、変化を受け入れようとしているみたいに感じてしまった。こんな風に、誰かの変化につられて自分も変化できたら、どんなに楽で良い事か――
なんて。
お世話になったこの場所が終わろうとしているのに、どうして自分よがりな考えが浮かんでしまったのだろうか。こんな時に限って、どうして頭が働いているのだろうか。思考がとっ散らかってゆくのだろうか。
「考えるのを止めるな! もし止めれば、誰かに使われるだけの人生になるぞ」
ああ。こんな時に限ってどうして上司の言葉が蘇るのだろうか。この銭湯の熱い湯のように、上司の言葉が刺激になって思考が整頓されてゆく。
私はこの銭湯にお世話になった身だ。その場所が時の流れのままに亡くなろうとしている。それまでに、私が成したことはあった? 開業したての気持ちを未だに持っているおばあちゃんが言った「これから」に、私の出来る事は無いの?
「でも」
「……どうかしたの?」
「どんなに時に流されて、変わらなくちゃいけなくても。あの頃と変わらない意志を口にできるおばあちゃんが居る限り、この場所は亡くしちゃいけないと思います。店閉めまでまだ猶予がありますし、そもそもまだこれは公にしてませんよね? 貼り紙をしてないってことは――」
「それはお母さんに悟られないように店を閉める為よ。しかもここの店終いはもう常連さんに周知してあるの。今更後には退けないわ」
「どうして常連さんにだけ言っただけで後に退けなくなるんですか? 書類を出したのならまだしも、お客さんに言っただけ、で済んでるのならまだ引き返せます! どうか考え直してください!」
「こんなに考えたのにまだダメなの?! 私はまだ考えなきゃいけないの?! こんなお母さんの世話をしながら、こんなお母さんの置き土産も面倒見る方法を、私はまだ、考え続けなきゃいけないの……?」
私の両肩を掴んで号哭したおかあさんは、地べたにへたり込むと、しきりに鼻をすすった。私に表情を見られまいと顔を伏せる彼女だったが、そこを伝って床が濡れる様は、表情を想起させるに充分だった。
考えてみれば、幾年ぶりにふらっとやって来ただけの私が、独りで途方もない時間を掛けて決意した事に水を差せるはずが無かったのだ。血が繋がっているわけでもない、常連と呼べるほど長く利用しているわけでもない、ましてや店側の事情など知るわけがない。それでいて気持ち一つだけの提案をのんでくれると思っていたなんて、私はどれほど浅はかで無責任だっただろう。
「ごめんなさい、おかあさん。五年も来てなかった私が言えることではないですよね」
「……私こそ、ごめんなさい。あなたの事を、気持ちの捌け口みたいに使って」
「愚痴とか鬱憤とかを聞きに顔出すだけでもすればよかったなって、思ったくらいです」
「そしたら銭湯も使ってもらわなくっちゃ。そこの牛乳も飲んでくれたらもう立派なお客様よ?」
「商売っ気が強いのは、変わってないんですね」
「あなたこそ、人の事ばっかり気にしてるところが全然変わってない」
彼女が言い終わったであろう時に目と目が合って、何故だかお互いに吹き出してしまった。と同時に、気が抜けたのか自分のお腹も盛大に鳴り出した。この音におかあさんは目を丸くしている。
「ごめんなさい、つい」
そう言った頃にはおかあさんは笑みを浮かべていた。
「お腹空かせてるなら、ちょうどいいわ。お母さんの為に夕飯を作ってあるんだけど、もうあんな感じだから一人で食べさせるのはどうかと思ってたところなの。私が店番してる間、食事ついでに一緒に居てくれる?」
「ありがたいですけど、おかあさんのご飯は――」
「こういう時は遠慮しないの! それに、私がお願いしてるんだから、お駄賃だと思って気にせず食べてって!」
こうして私は、おかあさんに押されてカウンター裏を通ることになる。
「お母さん、夕飯にしましょ」
おばあちゃんの背後を通りつつ、おかあさんがこう声をかける。振り返ったおばあちゃんは私を珍しげに見てきたが、間もなく目を細めて頷いては席を立った。カウンター裏の戸が開いて、私は初めておばあちゃん達の控え室を目にする。そこにあったのは、彼女達の生活だった。
「あなたは右手の座椅子にどうぞ。今ご飯とお味噌汁を盛ってくるからね」
座敷の中心にあるテーブルには、焼き魚、小鉢、冷奴が二人分。壁際には、テレビ、日用品がまとめられた棚、畳まれた布団一式等が置かれ、それらが使い込まれた様は、おばあちゃん達は本当にここで長い間生活していたのだと知らされる。
かたり、と白米と味噌汁が用意された音がした頃には、後ろにいたはずのおばあちゃんが私と対になる位置の座椅子に腰かけていた。
「じゃあ私は店番してるから、おばあちゃんの事はよろしく!」
分かりました、と言う私の返事を聞く間もなくおかあさんはここから出ていった。
こうして私はおばあちゃんと二人きりになった。彼女が立ったままの私を不思議そうに見つめている。どうやら私が座らないと食事が始まらないようだ。
「おかあさん、いただきます」
座椅子に腰掛け、手を合わせ、食事にありついた。一口食べれば、空っぽの胃袋に惜しげも無く旨みが染み込んで、ひと息にかき込んだ私は、おばあちゃんよりも断然早く食べ終えてしまった。そして困ったことに、私の身体はまだ空腹を訴えている。今日初めてのまともな食事だったから仕方ないとはいえ、用意された食事のこれ以上を求めるのは違う気がする。
「おかわり、要るかい?」
「え?」
「持ってきてあげようね」
「そんな、結構です! 結構――あ、の……」
断る私をよそに、おばあちゃんは私のお茶碗を手にしては台所へ向かってゆく。歩幅小さく前進する彼女に何かあってはいけないので、私もそっとついていく。鼻歌混じりに辿り着いた場所は、独立した棚の上にある炊飯器。開けると広がる湯気がご飯の薫りを乗せて、私の食欲を刺激してくる。
「はい、どうぞ。いっぱい食べて、大きくなるんだよ」
ぼーっとしていたところに向けられたおばあちゃんの声と、山盛りの白米。私は会釈してそれを受け取ると、彼女はまた歩幅小さく、元の席へと戻ってゆく。私もまた、彼女が無事席につけるまでを待って、それから元の場所に座った。
それにしてもこのおばあちゃん、上手に箸を使って、上手に満遍なく食べている。焼き魚の中骨を一本一本丁寧に箸で抜き取り、皿の端に並べてゆく。あんな癇癪の起こし方を見た後で見るこの光景は、まるで別人かと思わざるを得ない。
「ごめんなさいねお客さん。ご迷惑じゃないかしら?」
「え?」
「私ね、お医者さんから、認知症が進行してますって言われたの。まだ初めの段階らしいんだけど、最近、時間が分からなくなったり、場所が分からなくなったり、無意識になってたりして」
突然語りだしたおばあちゃんは箸を置いてうつむく。
「不安なの」
先程の状態から正気に戻るとは――自分の状況を整理して人に話せるほどとは、思ってもみなくて言葉が出てこない。認知症は、脳の衰えによるものだと聞いたことがあるけど、脳が衰えるってどういうことなのか分からないし、そもそもヒトは衰えに逆らえないのが性だから、何かをすれば衰えが止まるだなんて有り得ない。
だけど。
「おばあちゃん」
それでも、今まで一度も見たことがない塞ぎ込みようの彼女に、何かを言わずにはいられない。
「これから先、困ったり、不安になることがあったら、今みたいに話して下さい。おかあさんや、今までのお客さん、私でも構わないので、おばあちゃんがその時思ったことを話してくれれば良いです」
「こんな老いぼれの話を、皆真剣に聴いてくれるかしら」
「おばあちゃんの銭湯が好きで来てくれる人なら、きっと聞いてくれます。私も、その一人ですし」
私の言葉で顔を上げたおばあちゃんの眼に、私の顔が映る。
「おばあちゃんがどんなになっても、おかあさんや今までのお客さんが付いてます。だから、心配しないでください」
おばあちゃんが噛み締めるように頷く。その間の私は、彼女から答えが出るまで視線をそらさないようにした。
「あなたの言う通りにしてみるよ。ありがとう」
そう言うと、おばあちゃんの眼は再び食事に向いた。私も彼女にならって、盛ってもらったご飯に視線を落とす。冷めてしまったそれを箸でひとすくいすれば、内側から湯気が立ち込める――。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした!」
それからの私達は、黙々と箸を動かして夕飯を平らげることに努めた。そうして綺麗になったお皿を眺めていると、がらがらと戸が開いた。
「ちゃんと食べたみたいね! お口に合ったみたいで良かった!」
「はい! どれも美味しかったです――あっ片付けは自分で」
「気にしないでゆっくりしてて!」
言うなりささっと片付けてしまうおかあさん。彼女のてきぱきとした動きには感心する。人に寛いでもらおうと気を回せるところは、やり方は違えど、当時のおばあちゃんの気遣い方に精通している気がする。このような人に私も成れたら、なんて思ってしまう。
「どうしたの? 溜息ばっかりして」
「え、溜息ついてました?」
「ついてたわよ。やだ、無意識?」
怖い怖い、と呟きながらおかあさんはテーブルを拭き上げてゆく。
「そういえば、就職先では上手くいってるの?」
「まあ、それなりに」
「今でそれなりだと、なかなか苦労してそうね」
「わかるんですか?」
「伊達にお客さんを相手にしてないわ。この歳だと、大なり小なり肩書きに変化が起こってるものよ」
「やっぱりそうですか……」
はあ、と口から漏れかねない息を、口をつぐみ、上を向くことで抑える。すると、その息が口を押し上げ、ふわふわと中空に漂った。
「今度はあくび? お腹いっぱい食べたから眠くなっちゃった?」
くすくすと笑われる私はぐうの音も出なかった。
「長居させて悪かったわね。向こうも落ち着いたから、あなたもお家に帰って休みなさい」
「そうします。ごちそうさまでした」
「帰っちゃうのかい、うちの銭湯に入らないで?」
「お母さんったら。この人はもう銭湯を利用したの。お金ももらったでしょ?」
おかあさんがこう言うと、おばあちゃんは静かに眉毛と目尻を下げた。
「大丈夫ですよおばあちゃん。近いうちにまた来ますから」
こう声を掛ければ、おばあちゃんの顔が華やいで。
「いつでも待ってるよ」
こうしておばあちゃんに見送られ、部屋を出た。後ろから来たおかあさんが引き戸を閉め、私が暖簾をくぐるところまで付いてきた。
「近いうちにまた来る、なんてありがたい言葉だけど、今の私としては正直、迷惑な言葉だわ」
背中越しに言われた批評に振り返った私の視界に、目尻を拭うおかあさんの姿が入る。
「そんな事を言われちゃうと、どんな顔で居たら良いか分からなくなる」
こちらを見る彼女の眼は潤んでいた。これ以上のことを口にしないように唇をくっと結って。
「ここが開いてても、そうじゃなくても、私はまた来ます」
おかあさんにお辞儀をして、帰路に就こうとしたその時。びゅう、と冷たい風が吹いた。
その方角にあったのは、夜空を背に爛々と花弁を散らす桜の樹。
「ここでしか会えない春の息吹、また味わいたいので」
大きく息を吸う。夜になって冷えた空気に混ざる湯けむりも心地よい。明日からしばらくは、これを楽しみに仕事を頑張ろうと思う。
「では失礼します」
私はようやくその場を後にした。歩みを進めるうちに、桜の樹を前にして言った内容が可笑しく思えてきた。どうしてあんな格好の付け方したんだろうかと馬鹿馬鹿しく思えてきて、だんだんと、視界がぼやけてきた。
誰かに使われ、流されて。そんな私を知らない人の前では――見透かされてるくせに格好つけて。
揃った両足と花弁の道に、雫がひとつ、またひとつ。とめどない雫で道が汚れないように、私は両手で雫を抑え込む。それを乗り越えてまで汚そうとする雫を抑えたくてしゃがみ込み、膝を寄せる。こんな事したって人生何も変わらないのにと、思えば思うほど雫は溢れ出た。情けない喚き声も上がった。通り掛かる人達に怪奇の目を向けられる心配も浮かんだけど、そんなものも流れる雫で流された。
いっぱい泣いた。胸の奥がまっさらになるまで泣いた。泣いて身体が熱くなって、冷たい風が気持ちよかった。
「こんな顔で明日出社か」
真っ赤に腫れたであろう顔を想像して溜息が出た。でも、この行動のおかげか心が澄んできた。
「自分に出来る事、成せる事をやっていかなくちゃ」
成せる事をする為なら、誰かに使われるのだって本望。誰かに使われてみることで、自分の成したい事が見えてくると思うから。
立ち上がった私の背中を、春の息吹が押し込んだ。
『桜の降る銭湯の話』
~完~