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「してあげる/してもらう」と風の話

 アラフィフの親世代の男性には「家のことはなんにもしない」人が多いけれど、父は家事をよくする方で、私はいとこたちからよく「うらやましい」と言われた。
 たしかにほかのおじたちはほとんど家事をしなかった。父は五人きょうだいの三番目だったが、物心ついたときからひたすら実用的に役立つことを期待されて育ったらしい。家にいるときは掃除や買い物、庭仕事や日曜大工みたいなことをちゃかちゃかやるのが習い性になっていた。父と母は、基本的に家のことを協力してやっていたし、仲が良かったと思う。しかし、母が75歳でがんで亡くなる1、2年前は、雰囲気がかなり険悪だった。

 母はギリギリまで自分の身の回りの世話はできたものの、父に頼らざるをえないことが増えていた。父はまだ仕事も忙しく、疲れているくせに母の要求に応えようとやたらバタバタ働いていた。そのバタバタが、病気で神経質になっている母のカンにさわる。母はもともと台所仕事には細かく、洗い物の水が周囲にかかるとか、ものをしまう場所が違うとか、許せないことも多かった。お父さんがいなかったらどうにもならないことはわかってる、でも見ていられないの。文句を言っては悪いと思うから必死で黙ってるの。疲れてるんだからそんなにやらなくていいのに。
 月に2~3度のペースで実家に行くと、母はよく私にこぼした。母は介護認定を受けていて、ヘルパーさんも来てくれていたから、父がまったく家事ができなかったとしても、家はなんとか回っているはずだった。母のグチには、自分が動けないふがいなさも、父への心配も混ざっていた。
「してあげる」「してもらう」の関係として、「してあげたいことをすすんでしてあげる」「してもらうのが嬉しい」がベストだと思うが、このときの二人の関係はかなりねじれていた。

 母は「頼んでも、望んだようにはしてもらえない」「相手に無理をさせている。頼むのがつらい」「本当は嬉しくないけど、感謝しなきゃいけない」という気持ちでがんじがらめになっていたように思う。「もっとこうして」も冷静に言おうとはしていたが、体力的な余裕がなかった。父はどうすれば母が喜ぶかがわからないまま、いろいろと必死でしてあげていた。「俺がすぐ、~するから!」といってバタバタ動かずにいられない。バタバタすればするほど母はイライラし、父はさらに疲弊する。「してあげる」と「してもらう」がかみ合わず、空気がよどみがちだった。プロ野球と飼い猫の話題が、かろうじてその空気を救っていた(二人はヤクルトファンだった)。
「してあげる」と「してもらう」の関係は束縛や暴力にもなりうるんだなと思う。すごく嫌だけど、義務だから仕方なくしてやる。頑張ってしてあげたのに全く感謝されない。してもらっても全然嬉しくないけれど感謝を強いられる。そんな関係はもはや束縛ではないだろうか。

 仕事であれば、間に“お金”が介在する。ただし、いったん仕上げた仕事に修正を頼む/頼まれる場合もよくある。そんな時、気持ちよく修正依頼をしたり受けたりできるのは、互いの間に「こう直せばもっとよくなる」という共通認識があるときだ。してあげる側、してもらう側の双方に何らかの喜びがなければ、仕事も苦行にしかならない。

 昨夜、男友達のT氏と、八海山を飲みながら、noteのマガジン「アラフィフゆるフリー」のお題が「してあげる/してもらう」なんだよと話したら、彼は「それは深いテーマじゃないか」といった。T氏が荻窪のスーパー「タウンセブン」でいろんな投げ売り品を買ってきてくれて、一緒につまみを作って飲み食いする「投げ売り会」はもう15年も続いていて、彼の「投げ売り道」は磨き抜かれている。
 当初、彼は魚屋さんに「お客さん、まいったよ、商売上がったりだ」と言わせるのが遠い目標だと言っていたが、もはやその域も越えている。魚屋さんに「何がおすすめですか」「いちばん大きいのをください」と毎週声をかけ続けた結果、近年では顔を見るなり魚屋さんが寄ってきて「(今日のおすすめは)イカ、イカ」とささやいたり、「300円でいいよ」と値引きしてくれたりするそうだ。あんた貧乏神じゃないの!? へへーありがたや、と伏し拝んで感謝するしかない。しかも料理が上手い。

 つきあい初めの頃は、私も同じように材料を仕入れたり、時にはお返しに料理を全部作ったりしなきゃと思っていたが、T氏は正直者で「感謝するのがつらい」と顔にかいてあったので、無理をしないことにした。長年のつきあいを振り返ると、私はあきらかに「してもらっている」方が多い。鶴を助けた覚えもないのに「鶴女房」が来てくれたようなとんでもない幸福を味わっているので、これが当然だと思ったらおしまいだと思っている。
『夕鶴』は、資本主義の話で」とT氏が「しょうが焼きプランB」をつまみつつ言う。材料は藤巻商店の肩ロース切り落とし150g350円。旨みがありつつものすごく柔らかい。玉ねぎとにんにくをよく炒める→小麦粉をはたいた肉をサッと焼く→おろししょうが、酒・みりん・しょう油を混ぜたタレをジャッと流す→ちぎったレタスを敷いた皿に盛って完成。
「資本主義? そうだっけ?」
「この肉、今回が350円だったから、次回は200円で仕入れてこいっていうのが資本主義で」
「そんなこと言わない言わない」

 しょうが焼きの次はすきみ鱈(1パック150円、5割引の商品)を使ったホワイトシチューを作った。一人じゃ絶対やらないけど、二人だとホワイトソースから作るのも楽しい。

『ベルサイユのばら』の中に、「おれはいつか…おまえのために命をすてよう…」という名セリフがあるらしい。LINEのスタンプになっていたのだが、どんなシーンだったかは覚えていない。最近、T氏に感謝してもしきれない気がするとき、このせりふがよく脳内を回っている。してもらったことに対して、同じくらいのことを「してあげる」のは絶対に無理だとわかっているからだ。ずいぶんと安い命ではあるけれど……。

 15年もの間、ずっと良い友達であり続けられたのは、一緒に暮らしていないせいだとは思う。どちらかが病気になるとかして環境が変わっても、今のままでいられるかどうかはわからない。「してあげる/してもらう」関係が喜びでなく義務や束縛に変わってしまったら、殺したいくらい憎く感じることもあるのかな。

 「してあげたい」「してもらって嬉しい」という気持ちは、風みたいなものかもしれない。風がめぐっていれば大丈夫な気がする。互いに感謝を強いるような張り詰めた空気は、そのまま束縛で暴力にもなりうる。
 私は坂口安吾の『青鬼の褌を洗う女』という小説が大好きなのだけれど、主人公のサチ子さんが自分の愛は感謝であると言っていた。「私の愛情は感謝であり、(中略)私自身が自然の媚態と化してただもう全的に男のために私自身を捧げるときは、感謝によるのであった。」こんな言葉が気になってしかたがない。この小説は、究極的に「してあげる/してもらう」をテーマにしたお話のような気がする。サチ子さんは愛情豊かでありつつおそろしくさめている。最後まで読むとなんだか泣けてくるのだが、理由がわからない。

 とりあえず、お皿を洗ってくれているT氏の後ろ姿に向かって「おれはいつか、おまえのために命をすてよう…」と軽薄につぶやいてみた。

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