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『ミッドナイトスワン』インタビュー余録と個人的な感想・後編

前回の続きです。後編をアップしようとしたら、服部樹咲さんが報知映画賞新人賞を受賞したことなど、新しいニュースも入ってきて、嬉しいなあと思った。

こちらのインタビューに載せられなかったお話と個人的な感想についてネタバレ全開で書いています。ご興味を持たれたかたはこの先を読まずに、ぜひぜひ映画をご覧くださいませ!! 

金魚と美しい赤のこと

凪沙は、差し色によく赤を使っている。前回触れた「赤いブーツ」のほか、トレンチコートから深紅の袖をのぞかせていたりする。
それと、凪沙は金魚を大切に飼っているのだけれど、その赤い尾びれは、バレリーナのチュチュにちょっと似ている。凪沙が美しいものを愛する人だということがよくわかる。生まれたままの身体になじめず、ホルモン治療に通っている彼女は、人の手をかけなければ生きていけない金魚に、親近感を抱いていたのかもしれない。

ああ、回り道ばっかりしているけれど。
最後のほうで、中学を卒業した一果が、凪沙の部屋を一人で訪れるシーンは、やはりショックだった。初見の時は、「性転換手術に失敗した」からあんなひどいことになったのかと思ったが、二回目に見たら、凪沙は「手術後のケアを怠ったから」とはっきり言っていた。調べたら、そのケアも大変つらいものらしい。「性転換手術が原因で命を落とすことはめったにない」という専門家の意見もあったけれど、体を大改造することにリスクが伴うのは当然だろう。手術に関する具体的な描写を見たことは、「体と心が一致しない」とはどういうことかを考えるきっかけになった。

でも、初見のとき、私がヘソを曲げた理由のひとつが、あのシーンが映像的に美しすぎたことだ。金魚たちは死んでしまったのかもういない。かわりに、部屋を彩っているのがおむつに染みた鮮血の赤だ。凪沙は感染症のため目が見えなくなっていて、空っぽの水槽にえさをやっていて……。話が巧み過ぎてあざとすぎてきれいすぎる。もう、監督のオニ!!! と思った。こんなふうに感じたのは、凪沙と一果が少しずつ心を通わせ合うまでがていねいに描かれていたため、二人にものすごく感情移入してしまっていたからなんだけど。

で、瀕死の凪沙は一果に海に連れていってほしいと頼む。何これ、海見ながら死ぬパターンなの!? ここへきてなんかドラマの定番中の定番って感じで、泣かせにかかってるのか!? と思った瞬間、私のヘソは猛烈にねじ曲がった。しかも不本意ながら実際泣きそうだから是非やめてほしい!! と思いながら観ていた。
だから、監督に「うっかり」泣きました、と失礼なことを言ってしまった。
でも、この後ちゃんと予想を裏切ってくれたので、本当によかった。

脚本になかった「一果、海に入る」シーン

海辺で、凪沙は子ども時代の自分を幻視し、さらには「白鳥が見えるわ」と言い出す。
「海に白鳥がいるわけないじゃん」「怖いよ、もう帰ろうよ、病院行こうよ」という一果に、私は心から共感していた。
「踊って」「嫌だ」「踊って」。
一果が砂の上で踊る「白鳥」を見ながら、凪沙はひたすら「きれい……きれい」とつぶやく。あのセリフは脚本どおりではなく、草彅さんのアドリブだという。たしかに、あの踊りは本当に「きれい」としか言いようがなかった。草彅さんの鬼気迫る演技。
このあたりから、私はひねくれるのを止めていた。話がパターンからはどんどん外れていた。踊り止めた一果は、こときれた凪沙を一瞥する。それから、何かに挑むように、夕暮れの海の中へ、ざぶざぶと踏み込んでいくのである。
なんと、このシーンも脚本にないという。

一果が踊る「オデットのヴァリエーション」の音楽を聴くと、自由と解放、という言葉が頭に浮かぶ。振付にもそれが感じられる。優しいメロディに乗って、ふわり、と翼を動かすような動きに始まり、音楽が高まると同時にはばたきも激しくなる。どうかわたしを解放して!! という叫びのようなはばたきだ。
内田監督も、自由と解放について、途中から意識するようになったという。
「脚本では一果が凪沙を見て終わりだったんですけど、現場で突然、海に入ろうと僕が言い出して。一果ちゃんは凪沙と違って、好きなことに向かって解放されていくということで、海に入りたいなと。そういう予定じゃなかったので、現場は大変ですよ」。
あのシーン、本当に素晴らしかった。

一果はなぜ海に入ったのか、死ぬつもりだったのか。理由はよくわからないし、解釈はそれぞれに任されていると思う。ノベライズ本はまだ読んでいないので、どう描かれているかわからないけれど、その時は監督の中にも理由などなかったのではないか。
全然レベルの違う話だけれど、ちょっと思い出したのがドリカムの「朝がまた来る」の歌詞だ。

雨なら傘持って
晴れたら上着脱いで
みんなそうして生きていくのに
雨に打たれたい
晴れたら焼かれたい

受け止めきれないような現実と出会うと、人は何をしでかすかわからない。雨に打たれたくなったり、海に入りたくなったりしても不思議はない。

海に入っていく一果はとても野性的に思えた。自由に、自分の思い通りに生きたかった凪沙にバトン(赤い靴?)を渡された一果は、バレエという翼をもって何があっても生き抜いていく、野生の鳥になったと私は思った。
とにかく、あの海のシーンを撮り切った現場がどれだけ熱く濃密な場だったのかは想像できる。「あのシーン、本当はCGで白鳥つくりたかったんですけどね。お金ありませんって言われて」と、監督はたぶん99%冗談でおっしゃっていたけれど、1%くらい本気だったとしたら、そんな予算がなくて本当によかった。

そして、海に入っていって終わり、という選択肢もあったというが、(海辺でも、コンクールでも踊るのが同じ「オデットのヴァリエーション」で繰り返しになるから)、「今となってみれば、NYでのコンクールのシーンは撮ってよかった」とのこと。本当に、驚くほどすらりと背が伸びた一果が最後に踊るヴァリエーションは圧巻だった。
ショーパブでの一果の踊りも、指先から髪の毛の先まで美しく、ひたすら無垢で涙が出たけれど、NYでの一果はすでに意志をもった堂々たるアーティストだった。服部さん、まだ中学生なのに末恐ろしい。

想像の先へと育ってゆく物語

あらためて。
草彅さんがすぐに出演をOKしたという内田監督の脚本は、もともと素晴らしかったに違いない。そこに、草彅さん、服部さんをはじめ、スタッフ・キャストの創造力や熱意がすべてかみあって、様々な「アドリブ」が生まれ、想像を越える映画が生まれた。
「あのシーン、アドリブなんですよ」「役者さんって、カットしないとやり続ける、そういう習性の方々なんで。『続き』をやってもらうと面白いんです」という、監督の嬉しそうな表情を思い出す。「続き」が生まれるのは、物語の土台がしっかりとあってこそだ。物語の土台としてたくさんの取材があり、先行する様々な映画や本があり、そこに関わった数多くの人々がいる。

この映画は、「母と娘」の物語だ。一果の母(水川あさみ)も、凪沙の母(根岸季衣)も、りんの母(佐藤江梨子)も、そして一果とりんの育ての母といえる実花先生(真飛聖)も素晴らしかった。
凪沙や一果に対し、一切の偏見なく接する実花先生は、この物語のオアシスのようだ。しかし、一果の育成に熱を入れるあまり、りんに対しては結果的に「育児放棄」になってしまったというのが残酷だなと思った(でもたぶんよくある話だ)。一果が、足底筋膜炎になったりんを心配して、「りんはもう来ないんですか」と訊ねた時の、先生の「残念だけどね」という声の冷たさが耳に残っている。

その後、一果の指導のために広島に来た先生が、一果を抱きしめるシーンも印象的だ。りんの死は、誠実な教師である実花先生をものすごく苦しめたに違いない。一方で、あんなことがあったからこそ、りんの分まで一果の指導に力を注ぎ、世に出さなければと決意したのだと思う。そんな説明は一切ないけれど、あのシーンにそういうことがすべて含まれていた気がする。

うーん、語り切れない。
これは「母と子」、「育てる」ことについての物語だと思う。もてる限りの愛情と力を注ぎ込んで生み出した物語も、おそらく作り手の想像を越えて「育つ」ものなのだろう。たぶん内田監督は、物語の「育つ」力に全幅の信頼を置いて映画づくりをしているのだと思う。「あれ、アドリブなんですよ」と語ったときの監督の笑顔を思い出すと、そんな気がする。

ということで、この映画に出会えて本当によかった。
内田監督、次回作も楽しみにしております。

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