「Mとの遭遇」とピンチの脳内
12月~1月は、個人的にも興味あるお仕事をいくつもいただいて、嬉しかったけれど終わる気がせず、ずっとジタバタしていた。本当はすべてが1月半ばには終わっているはずだったのだが、締め切りを延ばしていただいたり、結果的に延びたものもあったり、なんだかんだあってようやく片づいたのが2月頭。やっと借金を完済した感じで気がつけば立春、日差しが春になっていた。
そうしたら何だかもう体に力が入らない。久々に参加した中尾充宏先生のバレエレッスンで、緊張を取るために「赤ちゃんか、かわいい動物を抱いているイメージで」自分の体を抱える、というエクササイズをやったら自然と泣けてきてびっくりした。この間、睡眠時間は削っていないしちゃんと食べてもいたのに、体重が急に減って慌てて病院に行ったりもしたが結局ぜんぜん異常なし。締め切りが終わったら、今度は順調に増え始めてぽっちゃりに戻り、自分の体の現金さに驚いた。
この記事が入っているマガジン「アラフィフゆるフリーランス」、テーマは「ピンチの乗り越え方」なのだけれど、今回は優秀な編集者の方々が根気よくリードして助けてくださったから乗り切れた、という感じで、自分はジタバタ以外何もしていなかった気がする。このテーマはたしか私が発案して(ピンチの予感がしていたから)、ピンチ中はそっちに頭がいっぱいで書けず、恐ろしく締め切りを遅れてしまった。しかも乗り切った今は書くことがないというか、ピンチ中の醜態は思い出したくない!!というのが、我ながら非道い現状なのです。
そこで今回は仕事の話から少し離れ、わずかながら「命の危険を感じたときの頭の中」について書いてみようと思います。
一つ目は、東日本大震災の時。私は東京都調布市の自宅最寄り駅前の広場にいて、現実に命の危険にさらされたわけではない。ただ、地面がパイ生地みたいに波打つのを感じてこれはただごとではないと思った。隣にいた上品な老婦人にしがみつかれて、その肩を支えつつ大丈夫ですよと声をかけていた。駅舎は工事中で、巨大クレーンが頭上でゆらゆらしていた。可能な限りはこの人をかばうけれど、あれが倒れてきてもっとひどいことになったら、私はこの人を突き倒して逃げるなとはっきりと感じていた。で、後になって「仕方がなかったんです」とかいって泣きじゃくる自分の姿まで瞬時に浮かんだ。
ああいう時は、頭が変に冷えて回転が速くなる。
二つ目はもう40年近く前、1984年3月のことだ。私は中二生で、友達と渋谷で待ち合わせ、朝いちばんで『風の谷のナウシカ』の監督舞台挨拶付上映を見に行こうとしていた。当時は地下鉄日比谷線の広尾が最寄り駅だったが、日赤医療センター下というバス停からだと渋谷まで乗り換えなしで一本だから、私はそちらに向かった。子どもだけで映画に行くのが初めてでワクワクしていたせいか、ずいぶん時間が早かった気がする。日曜ということもあり、バス停には誰もいなくてバスもなかなか来なかった。
と、眼鏡をかけた二十代後半か三十代に見える男性がやってきて、どこへ行くの、と聞いてきた。友達と『ナウシカ』を見に行くんです、と素直に答えたと思う。車に乗せてあげるから一緒に行こうよ、と彼はいう。いえ、結構ですといったが男性はしつこかった。バスはぜんぜん来る気配がないし周囲にはあいかわらずひと気がない。私は広尾駅に向かって走り出した。バス停から駅までは歩いて7、8分で、S字状の下り坂になっている。彼は紺色の車で追いかけてきて、窓から顔を出して「おーい、待てよー」と声をかけてきた。私は走りながら「マラソンで行きまーす!」とどなり返した。今考えると間抜けな返事だ。駅の階段を駆け下り、切符を買ってさらにホームに駆け下りると運良く地下鉄が停車中で、私はホッとして車内に駆け込んだ。車内もがらんとしてほとんど乗客がいなかった。
ところが、この地下鉄がなかなか発車しないのである。私がじりじりしていると、男が階段を下りてきてきょろきょろしているのが見えた。乗客がほぼいないから、見つからないわけがない。私は身を堅くしたが、車内には運転手さんも車掌さんもいるのだから大丈夫だと思った。彼は隣に座って、友達になろうよ、といってきた。私はそれより、車大丈夫なんですかといった。この人を刺激してはいけない、とにかく穏便に別れなきゃと思った。ひと駅目の恵比寿につくやいなや、すみません、友達が待ってるんでといって地下鉄を降り、階段を駆け上がって山手線(当時はまだ国鉄!)に乗り換えた。国鉄恵比寿駅にはさすがに人がたくさんいたし、彼はもう追ってこなかった。渋谷で無事友達と落ち合い、私たちは『ナウシカ』を観た。そうそう、『ナウシカ』と同時上映の短編がキャラクターが全員犬になっている『名探偵ホームズ』で、これがたしかほんわかとした後味の良いお話で、その時点で私は怖さを忘れた。そしてもちろん『ナウシカ』は素晴らしく、朝の出来事はほぼ頭から消し飛んだ。
その後も、この時のことはめったに思い出さなかったし、中・高・大学時代を通じて痴漢みたいなものにも一度も遭っていない。ただ、1988年に幼女連続誘拐殺人事件が起きて宮﨑勤が逮捕された時に、あの時の人とちょっと似てるなと思った。以後も「ひょっとしたら」「まさかね」と考えることが何度かあったが、基本的には忘れていた。2003年に出版された吉岡忍のノンフィクション『M/世界の憂鬱な先端』は興味深く読んだけれど、その時もまさかなあと思っていた。
最近になって、ふと思いついて「宮﨑勤 車 紺色」で検索してみたら、あっけなくヒットした。宮﨑の愛車は紺色の「日産ラングレー」だったという。坂道を蛇行しながら追ってきた紺色の車のイメージは目に焼き付いていたので、私はやっぱり彼だったんだ! と思いこみ、少しのショックもあってこれまで数人におもしろおかしくしゃべってしまった。が、結論から言うと間違いであった。恥ずかしい。この原稿を書くために再度調べたところ、彼が免許を取得し、日産ラングレーを買ってもらったのは86年らしく、時系列が合わない。あの人と宮﨑の共通点は「紺色の車を持っていた」というだけなのだ。
あの人がどこかでこの文章を読んだとして、自分が宮﨑勤と間違われたと知ったら「心外だ」と思うだろう。初対面の中学生を車で追いかけるという行為は常軌を逸していたと思うが、私は実際に嫌なことをされたわけではない。
また、あくまで仮定の話、宮﨑氏本人だったとしても、これは事件の4年前である。その時点で犯罪を犯したわけでもない人を妖怪みたいに扱うのは間違っている。
ただ、あの日私がかなり怖い思いをしたのはたしかだ。ああいう時、頭はとても冷静に働く。脳内で「計算」しているというよりは数値を一瞥して直感的に答えを出す「暗算」の感じだ。つねにピンチに接している人は、それがふつうになるのかもしれない。外界に対する身構え方や、ものの見方自体が違ってくるだろう。
先日、マガジンとりまとめ担当のはんぺん丸さんと話していて、「恐怖は感情の王様」という名言をいただいた。たしかに、喜びや楽しさは「水を差されて」薄まるし、怒りや悲しみは紛らすことができるかもしれないが、恐怖に支配されてしまうとほかの感情は一切入り込めない。恐怖の中にいると感覚はいやでも研ぎ澄まされるし、火事場の馬鹿力が出ることもある。
だから、自分を鍛えるためある程度リスキーな環境に身をおくべきだという結論にもなりそうだけれど、私はむしろ、今までのほほんと生きてこられた幸せのほうを喜びたい。ただし、それは非常に運が良かっただけで、何らかの悪条件が重なれば保身のためにどんな恐ろしいことをやってしまうかわからない。恐怖の支配下では、自分は被害者になるか加害者になるかわからないのだ。そういうエネルギーが身のうちにあることも忘れずにいたいと思う。
尚、「Mとの遭遇」というタイトルは“釣り”みたいになってしまったが、あの日、舞台挨拶で宮崎駿監督とはちゃんと遭遇したということで、お許しいただきたい……。