【連載小説】揺れる希望の虹(#1)
第1部:目覚めと初恋
第1章:揺れ動く心
節1「性別違和への目覚め」
真輝は、週末になると決まって家に漂う、鼻を突くような男の匂いが少し苦手だった。父の浩二が工場の従業員たちを連れて、家の居間で晩酌を始める時間。隣の工場から戻ってくる男たちは、油と汗の匂いをまといながら、缶ビールを片手に笑い声を上げていた。
兄の誠は、そんな場面でも自然に振る舞っていた。従業員のおじさんたちに冗談を言われても、うまく溶け込んでいた。父が「誠はしっかりしてるな」と目を細めながら言うたびに、真輝は居心地の悪さを感じた。自分もその場に座っていたけれど、まるで透明な存在であるかのように、誰も自分には話しかけない。
黒いランドセルも、特別嫌いではなかった。けれど、背負うたびに少ししっくりこない感覚が残った。黒くて艶のある確かにきれいなランドセルだったが、それがどうしても自分のものだという気がしない。それを背負って学校に行くのは自然なことであるはずなのに、どこか「自分には合っていない」と感じてしまう。
母の智子は、服飾の専門学校を出ていながらも、今は父の工場の経理を担当していた。家での母は、妹の奈央のために服を作るのが趣味のようだった。季節が変わる度に可愛らしいワンピースを作っては、奈央に着せ、喜んでいる母の姿を見て、真輝はいつも静かにそれを眺めていた。自分には、兄のおさがりの服ばかりが当てがわれた。泥の染みが抜けきれないズボンや少し色あせたシャツ。特別な不満はない。けれど、奈央が笑顔で新しい服を着て回っているのを見ると、胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚があった。
「自分だけが、半端な存在なんじゃないか……」
そんな気持ちが、心の奥底にくすぶっていた。母が妹の服を作るたびに、その感覚が浮かび上がる。けれど、誰に言うでもなく、真輝はそれを胸にしまい込んでいた。学校帰り自分が奈央のワンピースを着ている姿を想像してはそれを必死で打ち消していた。
父はいつも、朝早くに起きて、兄と真輝を連れ出してジョギングをさせた。工場の近くの道を、二人で走る。誠は軽やかに前を走り、真輝はその後ろを必死に追いかける。父は後ろから見ていて、兄のフォームにだけ目を向けて「誠、いいフォームだな。将来が楽しみだ」と褒めた。
真輝については、何も触れなかった。
それが余計に辛かった。父が自分を見ていないように感じられ、ただ存在しているだけで意味を失ったかのように思えた。走っているのに、まるで自分が透明人間になったかのようだった。父が褒めるのはいつも兄だけ。自分がどれだけ頑張っても、その言葉は決して自分に向けられることはなかった。
「僕はここにいないのかもしれない……」
そんな気がして、何度も心の中でつぶやいた。誠のようにはなれない。父の視線を感じながら、真輝はますます自分の居場所が見つからない感覚にとらわれていた。
鏡を見つめるたびに、男の子である自分がしっくりこない。兄のように、父の期待に応えることもできない。だけど、それを言葉にできる自信もなかった。
「僕は、何が違うんだろう?」
心の中で、答えの出ない問いが静かに繰り返されていた。いつも違和感が胸に残ったまま、それでも誰にも気づかれないように過ごしていた。自分の違和感を誰にも打ち明けられず、ただ「男の子」として存在することに、無理を感じていた。