変わりゆく時代、変わらない人々?二本の映画を観て 2024/12/14

今日観た二本の映画は奇しくも、大きな変革の訪れと、何もわからないままその変革に晒される人々を描いたという意味では非常に似ていた。でも、私の観想は真逆になってしまった。
最初に観た『太陽と桃の歌』は、ベルリン映画祭で非常に高く評価されたものらしかったけれど、観ていて、何故か最初からずっと哀しかった。変わらない家族の絆とか言われていたけれど、私には、土地を奪われ、最後にはショベルカーで破壊されていく桃園が、家族崩壊の象徴であるかのように見えた。小さな女の子がおじいさんと歌った歌も、哀しさを際立たせた。誇りにしていたものを奪われて途方に暮れたまま桃の収穫を急ぐことで思考を放棄している父親。ソーラーパネルの管理者になろうとして一抜けするその妹夫婦。そのことでいつも一緒に遊んでいた従兄妹たちは会うことも出来なくなる。息子は自分も父親の跡を継ぐのだと思っていたのに、父親が無理から体を傷めたときに張り切って働いても勉強しろとしか言われず認めてもらえなくて自棄になっている。娘は一番悲しんでいるはずの祖父に誰も気遣わないことに傷付いている。桃園があったからこそ、強く結びついていた家族だったのだ。彼らは夏が終わったらどうやって暮らしていくのだろう?未来の見えないラストに目が暗む想いだった。
『お坊さまと鉄砲』の舞台となったブータンは、山間の小さな国ではあるが、国民の幸福度が高いことで一躍有名になった国だ。国民は敬虔な仏教徒で、王政ではあるものの圧政を行う王はいなかったのか、国王は国中の尊敬と信任を集めていた。その国王が行政権を手放し、民主化へと舵を切って初の総選挙が行われる少し前のこと。民主化の意義と選挙のやり方を国中に浸透させるため、模擬選挙が行われることになった。国民はそれまで、「選挙」という言葉すら知らなかった。党も、候補も、知らなかった。テレビがあることが近代化の象徴となる、大正から昭和にかけての日本の農村のような国だった。ブータンの民主化と近代化をセットで考えて、何としても選挙を成功させる(それがどういうことかはよく分からないが)と考えている人たち。選挙に踊らされて家族の想いが見えなくなる父親。村の皆が支持する候補とは違う候補者を父親が支援しているために親しくしていたはずの同級生からいじめられても親の前では涙を見せない娘。そんなときに、瞑想のため山中に居たラマ僧が弟子の僧に、満月までに二丁の銃を手に入れるようにと言う。満月の日に法要を行うとも。弟子の僧は銃を見たことがないが、山を降りて村に行き、訪ね歩く。そこに何故か、アメリカからアンティークのガンコレクターがやって来る。ラマ僧の目的は。模擬選挙の行方は。私はこの映画が好きだ。村長に言われて選挙委員の手伝いをしていた母親が、首都から模擬選挙の支援に駆けつけた女性に言った言葉も。選挙の結果も。ブータンは、今はもしかしたら昔ほど幸福度は高くないかもしれない。この映画は、ブータンが今より幸福だった時代を象徴するものなのかもしれない。今のブータンは外貨を獲得するために観光を売り物にしている国だ。近代化は、彼らにとって両刃の剣だったのかもしれない。そう思うのは傲慢かもしれないけれど。でも、焚き火の周りで踊りに興じる村人たちを見ていて、それがとても素朴で、親しみと喜びに溢れているようで、自分まで救われた気がした。

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