朗読キネマ『潮騒の祈り』観想

1/8〜13に公演されていた、朗読キネマ『潮騒の祈り』観賞。この朗読劇は、主宰であり脚本家の高橋郁子さんが繰り返し公演されている演目で、母と娘、海と生命の物語だ。今回初めて、この朗読キネマを男性だけのチームでも上演されると知り、男性チーム、女性チームを観賞した。先に男性チームを観賞した。たまたまのことではあるが、これで良かった。
朗読キネマの手法は、個人の癖をとことん削ぎ落とし、朗読のリズム、型を定めた上で、役者を信じて演出も最小限に抑えるものだ。我々はとみに癖を個性と混同しがちだが、高橋郁子さんの、そして彼女が信を置く人たちの考えはその真逆である。癖が多いほど無個性になる、というものだ。それを聞いて、音楽と同じだな、と思った。楽譜にはリズム、速度、強弱、メロディ、全てが指定されている。音楽は徹底した基礎練習の上で初めて個性が花開く。楽譜通りに100%演奏できるようになって初めて、自分の個性や解釈が表現出来るようになる。朗読キネマもある意味、音楽と同じことを人の身体を通してやっているのだ。癖を削ぎ落とし、読むための型、リズムを指定することで、初めて、千差万別である人の体、そこから発せられる声、役に対する想い、読みながら想像している世界観などの違い、つまり演者それぞれの個性が観客の目の前で百花繚乱の世界を繰り広げる。
今回観賞した男性チームは、母と娘の物語として全く違和感がなかった。だが、私の心を揺さぶったのは女性チームだった。これは、優劣の話ではない。個性の話だ。男性チームの母と娘は共に、どんなに感情的に追い詰められても、どこかで理性の欠片を手放さずにいようとしていたように思う。だから、私もまた、海に浸り、その冷たさを感じ、月の光を受けながら、どこかでそんな自分を観察している視線があった。しかし、女性チームの母と娘は、理性を、と言うよりは外からの視線を自らの内から追い出したかのような、自分の感情が暴走してどうしようもない様をさらけ出してみせた。その為私の感情も理性を道連れにして翻弄され、観察する視線は、姿を消していた。これは男女の差、と思われるかもしれないが、私には、純粋に演者の個性の違いに思われる。それは、母と娘の間で、娘であり、娘の宿した胎児であり、母と娘を取り巻く海である役(海)を演じた演者さんの個性の違いからだ。男性チームの海は、大人の男性でありながら、母親に頼らなければ生きられない胎児、幼い頃の娘と成長した今の娘の内面、そして海を見事に演じ分け、理性を手放さない母と娘を揺さぶっていた。女性チームの海は、胎児、幼い頃の娘としては痛々しいほど私の心をかき乱したが、娘の内面、海そのものに関しては、型から溢れ出る個性が弱かったかも知れない。それは良い、悪いではなく、上手い、下手でもなく、人の身体から出るその人にしか出せない声、そしてその人が生まれてから生きてくる中で培ってきた想いや経験や、そういうその中でその人が自分の芯としていること、そういうことが飾りようも押し留めようもなくさらけ出される。すごい表現手法だと思いました。演者として舞台に立てるかはともかく、身につけてみたいと思いました。

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