不穏そして衝撃日本語でしか語れなかった映画 2024/12/22
本当は観る予定ではなかった。たまたま時間が空いて、たまたま見つけて、近隣だけど行ったことのないミニシアターで、気軽な気持ちで観に行った。かつて、村上春樹氏の短編集『女のいない男たち』から着想を得て制作された映画『ドライブ・マイ・カー』がカンヌで高く評価されたその監督、濱口竜介さんが、同映画の音楽を担当されたミュージシャンの石橋英子さんからライブ用の映像制作のオファーを受けたことをきっかけとして、二人の間で約一年に渡ってやり取りされたメールの中で着想を得てライブ用の映像と共に制作された映画『悪は存在しない』である。舞台は信州や高山の、もっと山寄りにある集落。とは言っても、昔からある場所ではなく、政府の開拓事業によって開かれた場所で、土着の人、というような人は元はいなかった。ただ、自然の豊かさ、水の美味しさは守り伝えられていて、主人公である父娘(巧と花)はそこのログハウスで慎ましく暮らしている。巧は集落の便利屋として、人々の求めに応じて様々な作業を請け負って生計を立てている。花は少し変わったところのある女の子で、林の中を一人で歩き回るのを好む。映画の始まりは、木々を見ていると、巧の後姿が目に入る。チェーンソーで丸太を切って、それを斧で割って薪にしているのだ。ただそれだけなのに、空が暗いからなのか、音楽のせいなのか、淡々と薪を作っていく(好きでやっている訳ではなさそうな)後姿のせいか、平和という感じがしない。巧はしばしば、学童保育に通っている花の迎えの時間を忘れて、花はしびれを切らして先に林の中へ入って好きなところを歩いていたりする。野性の鹿が住み着いている場所が近いので、巧は心配して探し歩く。巧が花をおぶって、花に木の種類を教えたりしながら歩くシーンは、二人が会話をしていたからか、唯一平和に感じたシーンだった。物語は、その後急転する。コロナ禍で補助金が出ていた当時の設定で、それを元手に、当時急速に増えていたグランピング施設を、何故か芸能事務所が近隣で作ろうとしていて、その担当者たちが説明会を開いたのだ。蓋を開けてみると、やはりその計画は杜撰で穴だらけであるということが分かる。中でも、生活排水の除染槽の処理能力と設置場所については、住民は皆反対しているし、管理人が24時間体制で置かれないことにも不安を募らせる。担当者二人も話している間にそのことを理解して、持ち帰り検討すると言って一旦事務所に戻る。しかし、もう辞めようという担当に対して、コンサル(グランピング施設設置のコンサルとは???)に半ば踊らされている社長は、課題を上げつつも、ちゃんとした話なら協力すると、冷静な態度でいた巧を口説き落として味方につけるよう指示する。担当者の男女(高橋と黛)は車の中で楽しそうに喋りながらも、その中でもまた一瞬、不穏な空気がよぎる。口説き落とせる訳などないと、二人とも分かっていたからだろうか。巧はそんな二人の到来に顔色一つ変えず、薪を淡々と作り、高橋は興味を感じて斧で木を割ることを申し出る。最初は力んで、何度やっても上手く行かないが、巧の言葉を聞いてからやると木が割れ、高橋は無邪気な笑顔を見せる。その後、三人で地元のうどん屋で昼食を済ませ、話をして断られ、高橋が自分が会社を辞めると言い出し…と色々あるが、とにかく巧は、気持ちや考えをまるで顔にも態度にも言葉にも出さない。なのにどこか不穏な空気を身に纏っている。野性の鹿の話が出る。鹿は臆病だから自ら人間に近付くことはないが、手負い(ハンヤ)の鹿は逃げるエネルギーが無いため、決死の覚悟で抵抗することがあり、危険だと巧は言う。そんな時、またしても巧は花の迎えを忘れていて、慌てて迎えに行くとやはり花は先に学童保育から出ており、探し回るも見付からず、集落を上げての捜索が行われる。高橋もじっとして居られず、巧と共に探し回る。そしてここからが更なる急転直下。謎しか残さない衝撃のラストシーンに向かうのだ。巧たちが花を見つけたのは鹿の水飲み場。花は鹿の親子の側に立ち、親鹿の脇腹には銃創があって出血していた。ハンヤだ。花が危ないと走り出そうとする高橋を巧は力づくで止める。殺してしまったのではないかと思うくらいの力で。そうしている間に花は鹿に近付き、恐らくは頭部を蹴られて、倒れている。鹿は姿を消している。巧は倒れた花の鼻血を指で拭き、そのまま呼吸の有無を確かめると花を抱き上げ、そのまま歩いて去る。意識を取り戻した高橋も、何を思うのか、よろけ、転びそうになりながら別の方向へ去る。エンドロールが流れ始めたとき、咄嗟に「えっ?」と声に出しそうになった。不穏な空気はずっとあって、でも何処かで、と言うか最後にはその不穏がどこから来ているのか、そのヒントくらいはあるのかと思っていたのに、何もないまま、謎だけが残って、巧の行動の理由、死んだ花を連れてどこへ向かったのか。そして高橋は何の、誰の元へ何をしに去ったのか。今後あの集落はどうなるのか。誰も、何も答えてはくれない。ただ、こんな人がこういうところで暮らしていて、こんなことがあって、最後はこうなったよ。と、事実の羅列を見せられただけで、だからそれは、何か、ナレーションのないドキュメンタリー映画のようだった。でもどうしてこの映画のタイトルが『悪は存在しない(EVIL DOES NOT EXIST)』なのだろうか。悪意、は確かにどこにもなかったのかもしれない。でも悪と悪意は似て非なるものだ。私の中でまだこの映画は混沌の中にあって、パンフレットを買って細かい活字を必死で追って見たけれど、分かった、と自信を持って言えないまま、逆に混沌が深まることになった。もしかしたら、これは、一見人が主人公となっているけれど、大きな意味では、人が住み、鹿を狩り、抑えて飼いならしているような自然も、人に抗おうと思えば簡単に抗える。水が上から下に流れるように、上流でちょっとしたことをしたら下流に大きな影響を及ぼすように、ソレは起こるべくして起きたことをただカメラが映しただけなのですよと言われているような、そんな気すらした。