海外現地採用で昇進を狙うのは無謀なのか
オーストリアに家族と共に移住し、高等教育機関で勤務しているKayです。
早いもので、引越してきてから10カ月がたち、8月下旬に入ると、夏休みムードも終わりに近づいています。
9月の新学期が始まろうとする中、うちの部署が若干ざわついています。実は、2つある各チームに、リーダーポジションができあがり、チーム内の誰かが昇進することになると上司が発表したのです。
外部からは登用しないとのことで、現在チームで働いている誰かが昇進するというのは確実。
ただし、現在行っている業務も引き続き行いつつ、リーダーとしてのマネジメントも行わなくてはいけないということで、多少の昇給はあるものの、それってどうなの?という疑問視する人も多いのも事実ですが。
いずれにしても、だれがそのポジションに応募し、だれが昇進するかというのは誰もが気になるところです。
私の所属するチームには5人スタッフがいるのですが、その中で、現在のポジションや業務内容から昇進の可能性があるのは、私と、もう一人だけ。
最近、上司と二人きりで話す機会があったので、思い切って聞いてみました。
「話にあったリーダーポジションだけど、興味があるのでそのことについて話したいです。」
すると、おや、雲行きがよくない表情。
表情の変化がゼロで、むしろ、マイナスの方向に変えないように頑張っているような感じ。うれしそうなのをこらえている様子ではない。
すると、彼女は「このポジションは競争が激しい(Competitive)と思う。それも含めて本当にKayがやりたいかどうか応募することは検討してみて」
あー、これはもう出来レースってことかぁ・・・もう上司の中で、私以外のもう一人のスタッフを上げることをもう決めているんだな。
と直感でした。
他のスタッフや、友人とこのことを話しても、「それはもう上司の中で決まってそうだね」というのが見解。
すごくすごく悔しい。挑戦する前にすでにもう決まってるなんて。
40歳を目前にしたこのタイミングで、また昇進逃すのかあ…
「また」逃すことになるというのは
思い出すのは、約3年前、前職でも、チームがセクションに昇格するのを期に、マネジャーのポジションができたことです。その際に、候補に上がったのが私と、もう一人の同僚。経験としてはどちらがマネジャーになってもおかしくないタイミングでした。
シニアマネジャーは私を推してくれました。しかしながら、シニアマネジャーの上司が、もう一人の同僚を推しました。
単純に考えて、より上の立場につく人間が推したスタッフが昇進するのは当たり前で、その通りになりました。
実をいうと、当時は全く悔しくなかったです。私はその同僚をとても尊敬していたし、彼が昇進することは喜ばしく、同じベクトルをもつ、ツーカーの仲でやってきた彼が私の上に就くことで、より仕事がやりやすくなるな、というのもありました。彼のビジョンでセクションがリードされるのはとても楽しみでした。
まもなく、私も2人目を妊娠するなど、ストレスなく産休育休に入り、タイミングとしてよかったのだと思います。
ただし、これがまた続くのか・・・と。
では、そもそもどうして上をめざしたいのか。
まず一つには、女性の管理職を増やしたいという願いです。
特に日本人の管理職の女性は他の先進国と比べて格段に少ないので、日本人女性として、管理職レベルに自らが就き、こちらで実績をある程度築き上げてから日本に帰国し、社会が進む原動力の一つになりたいという理由です。
そしてもう一つ。
これは前職にはそこまで感じていなかったのですが、現職はとにかくチームの方向性がバラバラで、様々な体制・構造が未熟だと感じています。これをリーダーのポジションという立場を利用して、立て直しを図りたいという理由でした。
先日、急病の同僚が出た時の体制であったり、問い合わせのメールひとつにしても、スタッフの回答の仕方がプロフェッショナリズムを欠くことを見受けることもありましたし、情報共有、予算管理、様々な場面で個人の裁量で行われており、チームや組織としての認識が弱いと感じているのです。
もちろん、それはこのチームが1人からスタートし、ここ数年でいくつものポジションに派生し、人が増えてきたという経緯や、ヨーロッパの高等教育であるという文化の差もあるので、日本で行ってきた仕事のやり方をそのままこちらに輸入することは不可能だということも十分わかっています。ただ、少しだけ、付加価値をつけることもできるのではないかと考えていたのです。
でも、上司はそう感じていないのかもしれない。
意気消沈…
私がすでに得ているもの
同時に、そもそもなんで、こんなにがっかりしているのだろう、というのも自身に問いかけています。
欲しいものが得られないから?
でも振り返ってみると、私は多くのものを得てきました。
海外転職をして、
海外に住むという自己実現もかなえて、
日本から離れたオーストリアの地で家族で楽しく生活を成り立たせていて、
子どもたちはどんどんドイツ語は上手くなり、
週末に時間を過ごす友人家族もいて、
連休には周辺国にドライブに行ってヨーロッパの夏を楽しんで、
私はこれ以上何を欲しているのだろう。
最近こどもに妙な症状がでて、初めて見るものだったので慌てて救急診療に行くと、ただの虫刺されと軽い結膜炎だったという、冗談のような事件もありました。
でも、その時は、心配しすぎて、こどもが元気であれば、今あるものすべていらないな、とすら思ったのも事実です。
それでも感じる、この失望。
負け戦でも挑む価値はあるのか
このポジションがおそらく秋になると発表され、一応公募制なので、履歴書などを準備して応募することになります。
さて、私は応募すべきなのか。
もう一人の候補は、前回同様、またまた同世代で、私と仲の良い同僚。彼女も私と多くの価値観を共有していて、彼女が私の上に立つことは、個人的にも組織的にも何の問題もない。性格もとても穏やかで、理解力も早く、賢い同僚なので、とても良いリーダーになってくれると思います。
そんな中、あえて私が応募するべきなのか。負け戦になることは確実です。
練習のためにいいんじゃない?と思う気持ちもあります。
ただ、準備すればそれなりに熱が入ってしまい、わかっていても落胆が大きくなってしまう気もしています。
落胆が大きくなることで、怖いのは上司やその同僚に対して、怒りの感情を持ってしまうこと。
彼女がリーダーになって、何か私が提案したプロジェクトが却下されたとき。プロジェクトまで行かなくても、違うやり方を提案されたとき。ちょっとした意見の違いが、怒りに変化して、その感情を抑えきれずに、プロフェッショナルに対応できなくなること。
それが一番私が恐れていることな気がします。
負け戦を挑めば、この恐れも現実になってしまうのでは?と。
そして、この状態になったときに最悪なのが、自己嫌悪です。
人を憎むとき、この憎しみを持っている自分自身を憎むことになり、苦しくなってしまうことがあります。
この新しいポジションが新しくできなければ、のほほんと過ごせていたのではないかと思うと、なんとも複雑な気持ちですが、さてこれからどうなるのか。
あとから振り返ると、今回の事は、どういう人生の一場面として写るのか。
「めちゃくちゃ小さいことで悩んでたね」となるのか、それとも「あれがなければ今の自分はないよね」となるのか。