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東大女子が見た青年海外協力隊 【ヤップ便り】 Vol.11 赴任3ヶ月が経過して

ご覧いただき、ありがとうございます。今日は長いです。協力隊日記というか、ようやくこのブログのタイトルに近いお話です。


「正しく」言葉にすること

最近英語ばかり話している(日本人いないんだから当たり前)ので、常に「いかに手持ちの英語の中から自分の言いたいことに近いものを選ぶか」を無意識に考えていて、日本語のように「自分の言いたいこととなるべく近い言語を選ぶ」ことができていないな、と思いました。

これは駒ヶ根訓練所にいたときに同期に教えてもらったのですが、私は「自分の言いたいことや考えていることをかなり解像度の高い言葉を選んで話す」のが得意なようなんですね。

今回のnoteは、自分の気持ちを整理していこうかなと思います。このnoteは「協力隊日記」ではなく、「東大生=現役大学生である私」が協力隊に参加して思うこと、を書くnoteなので。

海に出ると落ち着きます

充実しているはずなのに、苦しかった3ヶ月

日本を出てから約3ヶ月になりますが、こっちに来てから2週間に1回くらい熱を出していて中々体調が安定しなかったり、どうしても何も手につかなかったり、逆にすごくやる気のあるときもあったりと、あまり日本ではなかった日によるムラや気持ちの差が生まれています。

現地後の研修が始まったり(しかもまじでむずい)、全学年の算数の授業に入れる時間割に変えてもらったり、活動は充実してきてやることがないなんてことはなく、むしろ今度は準備などへの時間がなくなってしまったり、先生にどうアドバイスして一緒に授業をしていくかで悩んでしまったり、私が受け持つ4年生の国内統一試験も着々と迫る中一刻の猶予もないのに、なぜか何も手につかなくなってしまうなど、気持ちと行動が結びつけられないことがありました。

憂鬱なそんな朝に立ち寄ったパン屋さんで買ったパン。朝日が差し込むタクシーの車内。
私の中でパン屋さんはちょっとだけ、幸せになれる場所です

そんな自分に対して、今まであまりそういう経験がなかったので、どうして何もできないのか、このままでは2年間が終わってしまうのではないか、自分からどんどんやっていかなきゃ、と頭では分かっているのに、手がつかない。この1ヶ月は特に毎日学校に行って、授業に出て、生徒のサポートをして…毎日学校に行くだけなのに、自分の中では「すごく頑張ること」になっていました。

他州の小学校教育の協力隊員とオンラインで話す機会もあり情報共有などをしていても、自分との差を感じるばかり。周りは現役教員ですし比べても仕方がないのですが、「自分がここにきた意味」を見出せずにいました。あんなに行きたいと思っていた、日本人にいい印象を抱いてもらえればそれが一番、と思っていたはずなのに。生活に不満があるわけでもないのに。

初めての瞬間

でも、つい数日前の3年生に向けた授業中。Place value(一の位、十の位などの位取り)の解説+筆算の繰り上がり・繰り下がりの意味の話を何度もその前にしていたのですが、その復習を板書でしていたときに、クラスで一番くらいに習熟の遅い女の子が、筆算の意味をきちんと理解し始めたことに気づいた瞬間がありました。

こんな感じで位取りの概念を教えていました

初めてここに来て、「毎日学校に、授業に来てよかった」と思いました。何もできていないと思っていたけど、無駄じゃなかった。ちゃんと100人近い生徒の名前を覚えたことにも意味があった。

現役大学生が協力隊員としてできることは本当に少ないと思います。他の社会人に比べて、自分の無力さを痛感することは数多いでしょう(私の問題かもですが…)。でも、今この学校にいる100人の子供たちと、10人弱の先生たちの人生に、烏滸がましいかもしれないけど少しでも自分が何か良い影響を与えることができたら、そのために向き合うことは、計り知れない価値があることではないかと思ったんです。それってすごく、「教育」じゃないかな。

え、今ここまで書いていて思い出した。私、協力隊受けるときに面接で聞かれた。「社会人経験などが少ない分はどうやってカバーしますか」みたいなこと。ちゃんと答えたわ、「子供と歳が近い分、誰よりも子供に寄り添えると思います」って。がんばらなくちゃ。

自分の目指すべきところ

4年生の生徒は決して、勉強が好きな子ばかりではありません。日本と同じです。でもみんな前向きで、課題を与えられたらちゃんと取り組もうとする。それと同じだけカンニングもしようとするし、ずるもしようとする。そんな教室観察を続ける中で、自分の思い描いていた「途上国での教育」とのギャップに戸惑いを感じていたのも、悶々としていた原因の1つなのではないかと思います(今となっては教員というそもそもの現場経験の不足が理由だと思いますが)。

学校で行われた避難訓練の様子。昼休み中に不審者が来た設定

ここに来るまでの私は、「勉強がしたくても十分な環境が整っていない子に教えたい」と思っていました。しかし、小学生の年で「勉強がどうしてもしたい」と思うことはどう考えてもそもそも難しいわけです。
そうすると、おそらく私がフォーカスしたいのは、「勉強の大切さに気づけないまま学校に通って卒業し、気づいたら進路が狭まっていた、やりたいことができない状態になってた、不利益を人生の中で被ることになってしまった」という子供を減らす教育の方法を考えることです。
生徒と向き合って分かったのは、「勉強の大切さに気づかせるのはその年にならないと無理」なので、私が考えるべきは、「いかに子供たちが前向きに、自主的に学習に取り組めるか、その中で算数の基礎的能力(思考力を含意)を身につけられるか」という原点なのではないか。

日本を出る前に、師事しているゼミの教授に、「あなたは開発に興味があるのか、教育に興味があるのか」と面談の中で聞かれたことを思い出しました。私はそのとき「もしかしたら開発かも」とハッとさせられたのに対し、教授は冷静に「いや僕は教育なんじゃないかと思うけどね」と返してくれてそれがずっと分からなかったのですが、ストンと腑に落ちた気がしました。

焦っていた高校生の頃の私を、ふと

そしてふと、なぜか高校生の頃のことを、思い出しました。

高1の時に、母の勧めで、NPO法人留学フェローシップのサマーキャンプに参加しました。そのキャンプは、海外大学に進学を考えている高1・高2の生徒が選考を経て全国から集まり、「自分とは」「どう生きていきたいのか」に向き合いながらエッセイを仕上げる3泊4日でした。

主催するメンターは日本人の現役・海外大学生。その頃どうしても「途上国での国際協力に関わりたい」という気持ちを持っていた私は、同じような気持ちを抱く日本中の同志と生活する中で、非常に焦りを覚えました。当時自分が通っていたのは東京の有名私立中高一貫校。しかしかたや周りはIBのコースや国際課に通う子たちばかり。

そのときすごく進路と、自分の現状に悩みました。このまま進めば、自分は基本的に何事もなければ東大を選ぶような人ばかりの環境にいる。今思えばそれでいいのですが(笑)、当時はそれではいけないのではないか、自分はずっと敷いてきてもらったレールの上を歩み続けることしかできなくなってしまうのではないか、私の夢のためにはどこかで飛び出さなきゃ、と自分に不安を抱いていたのです。

サマーキャンプが終わってからもずっと悶々と夏休みを過ごし、当時は真剣にUWCに転校しようか考えていました。父親には「まじで何を言っているんだ」というような一蹴のされっぷりでしたが(笑)

まあ結局、そのあとは流石にそこまで踏み切ることもできず、競技かるたに死ぬほど打ち込んでいたこと(これは分かる人にしか分からない話ですがA級一歩手前まで来ていた時期でした)、そしてコロナ禍になったことから、そのまま東大を目指すことになったんですけどね。

そのときの選択が間違っていたとは思いません。大正解だったでしょう。

私がこうして今踏み出せているのは、本当に親に敷いてもらった教育の賜物だと思っています。東京大学は日本で最高峰の教育を受けられることは間違いがないため、そこで学んで教養を身につけたからこそ、進める自分の将来は最大限に広がっているのだと思います。与えられる限り最大限の選択肢を私に与えてくれた両親には感謝しかありません。当時の自分に教えてあげたいです。全然焦らなくていいよ、そのまま東大に行こう、って(笑)

当時の写真を探していたらこんな写真が出てきました。
これは最後のワークだったかなあ、どんなテーマだったっけ。最後にビリビリにした気がするな

先述したサマーキャンプですが、私が参加した当時、NPO法人留学フェローシップの理事長は現・芦屋市長の髙島崚輔さんでした。キャンプの中で直接お話しする機会は少なかったのですが、何度か全体で発言などを私がしたのを聞いてくれていて、帰る直前に呼び止められて、こう言われたのを鮮明に覚えています。

「Kayさん、〇〇(私の通う高校の名前)でしょ、あたり?東大に行きなよ、すごく向いていると思うよ」

こんなにこっちはレールの上で悶々としているのに、この人は最後になんてことを言うんだ、海外大に行くためのサマーキャンプだぞ…!と呆然としたため記憶に残っています。
でも、不思議なことにその通りでした。なんで髙島さんはそう思ったんだろうなあ。いつかもう一度お会いしたい人の一人です。

将来への不安

多分こういうことをふと思い出したのは、不安の中の1つが、漠然とした進路への不安だったからだと思います。

長いようで短いはずの2年間を手にして、心配性の私は、常に一歩先の未来のことばかり案じてしまいます。高校生の時から結局変わらないのかもしれません。

友達から入る内々定の報告、Instagramに出てくる就活フェアの広告、昔登録していた就活サイトからのメール…離れたようで、私の周りにはまだ、「大学3年生の春休み」にやるはずだった就職活動が時折顔を覗かせます。

私いつ就職するんだろう?大学院に行くなら帰国して2年はまだ学生だし、海外の院に行くなら日本での就活の線は限られる?2年待てば良いのか、でも空白の期間は何をする?私こんなんで大丈夫なのかな?考えれば考えるほど、たくさんの「どうしよう」で埋め尽くされてしまいます。

小さい頃は、お花のどこが良いのか全然分からなかったけど、
今はすごくお花を好きだと思う自分がいます。こういうことを言語化するのは苦手です

さっきさ、「この学校の子供たちと向き合うだけで十分」とか納得したように書いていたけど、それでも「もっとこういう成果を出さないと進路に影響が出るんじゃないか」とか思っちゃってる自分はいるんだよ。

ああ、そういえば、ゼミの教授が「たくさん悩んで悩んで悩んで帰っておいで」と最後に言ってくれたなあ。多分先生が言っていたのはこういう意味ではなかったんだけど、21歳、やっぱり悩んでます、先生。

twenty-one
描いてきた 夢のないプロット
壊せ、転がせ、未来へ飛んでゆけ
じっとして今まで塞いで
灰になった想いを文字を繋げて

緑黄色社会 あのころ見た光 歌詞 歌ねっと

私の大好きな緑黄色社会の曲です。この曲と同い年になったのが感慨深すぎる。この1年間、悩んだときはずっとこの曲を聴いてきました。
きっと何年後かに答え合わせできる時が来るはず。

思いたって書き始めたら2時間くらい経っていて、もう夜中の2時でした。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。また書きますね。

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