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保育の面白さを追求した先にある外部講師の指導とは
昨日で今年中の体育遊びが終了した。(今年度ではなく)
4月当初は天気に恵まれず屋内でやることが多かったが、後半はほとんど園庭で行うことができた。
この日も朝から寒く、ひんやりとした空気を吸うたびに肺がキュッとなるのを感じたが、子どもたちはそんなことも気にせず、講師と一緒に身体を動かして楽しく過ごせていた。
そう、過ごせていた。過ごせなかったのが、過ごせるようになったということである。
このnoteでは何回か体育遊び(運動遊び)について、現状に対する私の見解を書いている。試しやってみたことも書いている。
計画にも似た私の見解。けれどそれを実施する場面は一切なく。
かたや私が疑問を呈していた現行の体育遊びの方法は、それでも毎週行われ、結果として子どもたちがスムーズに参加できるようにまでなった。
口でいくら偉そうなことを言ってみても、結局実行しないのであればそれは机上の空論。
今までは体育遊びすらも私自身が行なっていたが、講師がいるとなるとそこに任せるようになる。考えなくて済むから楽になる。
その“楽“に甘えてしまったんですね。
思えば私自身が体育遊びの指導をしてた頃は、私自身が研修を受けて、それを子どもたちに対して同じように行うスタイルでした。
10年間働く中で、毎週体育講師が子どもたちを指導してくれる姿を見るようになったのはこの4月からです。初めての経験でした。
この経験を経て思うことは、私は“講師の指導“という言葉に勝手なイメージを持っていたということ。保育士の指導には“子どもたちの気持ちに寄り添う、遊びを主軸にした関わり“という意味を持たせ、その対局に“講師の指導“を置いていた。どこかあんまり良いものじゃないと決めつけていたように思います。
実はこの“外部講師の指導の有無“については、園を経営するサイドとして考えると、単純な問題ではないことも最近分かってきました。
数多存在する園の中で、自園を選んでもらうための要素。
これまでは、子どもたちの連続する遊びを分断してしまう活動として捉えてばかりいました。保育としては遊びを分断させないであげたい思うのに、経営面で言えば集客に繋がるから簡単に切れない。このジレンマ、伝わりますかね?
けれど、こんな意見もいただきました。
保育として面白いのであれば、外部講師はどんどん呼んだらいい。
この“保育として面白い“という観点は今まで持ち合わせていませんでした。外部講師の指導は保育を分断するもの、“それはそれ“という考えがあり、連続性がないと思い込んでいたからです。
この考え方に則していくと、先の“集客のための外部講師の指導の有無“とは意味合いが違ってきます。
保育の面白さを追求した先にある外部講師の指導の有無が積極性を強く感じるのに対し、
集客を追求した先にある外部講師の指導の有無には消極性を感じる。仕方なくやっている感じがしてしまう。
同じ“外部講師の指導の有無“というゴールに着するんですけどね…。