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菫 2






某月1日 日中

「いやぁ、助かりましたよ。宮前さんのご尽力には本当に感謝です」

「いやいや。柿崎さんの情熱あってこそですから。お気になさらず。やっぱり一人でも多くの人に幸せになって欲しいですからね」

「すごいなぁ、宮前さんは。やっぱり自分に余裕があると人の幸せも考えられるんですかね」

「ははは、そんなところです」


某県にある特区のひとつ。その入口で柿崎は、特区居住者兼アンバサダーの宮前に礼を述べていた。

特区運営にあたり政府は、居住者自らが広告塔になり、特区の良さを発信する事を推奨した。あくまで政府主導の成果達成率の公表よりも、特区での暮らしを体験した生の声を外部に届ける事で特区の有用性、健全性を世に訴える事が効果的と踏んだのだ。

アンバサダーである宮前は、この特区に最初に居住して来た人間の一人である。宮前の仕事はSNSを利用した特区のPR、居住希望者の面接、新規居住者の世話役、相談役と言ったところだ。

労働の必要なく自身の幸福追求に没頭出来る区域であるのに、このような仕事を割り振られてはその理念に反するのでないか。柿崎もチャットでのオンライン面接でそう尋ねた事があるのだが、誰に強制されるでもなく宮前は自ら望んでその役職についたのだと説明してくれた。

外部の人間に何を言われようと、ここでの生活は素晴らしい。外で生き辛い思いをしているのなら是非ここに来て暮らすべき。そうした使命感で宮前は動いていた。そこから来るであろう充足感は、見た目としては肥満に入る、眼鏡を掛けた根暗そうな男性である宮前の印象を溌剌なものにしていた。一見すると柿崎の方が(単に平均的な見た目と言う理由で)宮前より優れた容姿と言えるかもしれないが、それを補って余りある人間的魅力が宮前にはある、と言うのは当の柿崎自身も感じ入るところだった。


「あ、それじゃあ誓約書、お預かりしますね。――――あ、柿崎さんは診断書もお持ちでしたっけ」

「あ、はい。これが、誓約書…と、診断書です。 …どこか不備はありますか?」

「では失礼して中を拝見……―――――― いえ、ざっと見た限りは大丈でしょう。お預かりしておきます」

「よろしくお願いします」


特区に移住申請をすると、居住者としての資質を見極める為の書類選考や面接が幾度か行われる事となる。あらゆる犯罪行為が不問に処される特区であろうとも、大量殺人を行いたい者の居住は認められていない。一人の大量殺人願望者によって居住者全員が殺害されてしまえば、特区を用いた実験は立ち行かなくなる。

政府としては個々人の幸福追求を促進すると共に、この実験において多種多様なケースの収集を考えている。その為、少なくとも大量殺人以外で居住者同士がそれぞれの幸福を追求しようとする際に生まれる摩擦、軋轢、心身の負担などに関しては各々が相互理解と解決行動を以て最大限自衛に努めるものとされている。

そう言った旨を了承した事を示すものが誓約書であり、自身の求める幸福追求行動なくしては心身の健康を損なうと認定された事を証明するのに診断書の提出が求められる。興味本位、或いは虚偽の申告でこの特区に居住する事は不要なトラブルを招く原因となる為、こう言った書類が必要となる。


「それでは特区の中をご案内します。ついて来て下さい。 ――改めて、特区へようこそ、柿崎さん」


この特区は随分と昔に商店街として利用されていた土地で、様々な問題から取り壊しも行われず、シャッター街となっていた区画を再利用している。それぞれの店舗のオーナーも今はもう存在せず、自治体の経費で老朽化した各店舗に補修工事を施し、最低限度、人が住めるようになっている。

その為、ここの居住者たちの住居は基本的になんらかしらの店舗である事が多い。花屋、喫茶店など子供の頃の夢が叶ったかのような生活空間も、この居住区の魅力の一つだと、宮前は柿崎に語った。


「すみません、柿崎さんにご用意出来たのはこんな狭いところでして…」

「いえ、構いませんよ。特区に住めるって言うだけで別に」

「そう言って貰えると助かります。 ―――ただ、ご近所付き合いには注意して下さいね。ここでうまくやって行くコツは『気にするな、お互い様』ですからね」


宮前に連れられて柿崎がやって来たのは商店街のメインストリートからは一本外れた路地にある雑居ビル。その四階にある、元はカラオケボックスらしいものの一室だった。風呂、トイレ等は共同利用になっている。

元々狭いワンルームアパートに暮らしていた柿崎は、今までとそう大差ないと、すんなりと受け入れた。それを見て安心した様子の宮前だったが、ふと携帯端末を取り出し目を落とし、少し困ったように目を細めた。


「すみません、柿崎さん。まだ色々とご案内したいのですが、私、今日のところはこれで……」

「あ、彼女さんですか? ですよね、すみません、長々とお時間取って貰って」

「そう、ですね。彼女が心配してるってのもありますし、……私も、早く彼女に会いたいですから」

「はは、良いなぁ、幸せそうで。じゃあせめて下までお見送りしますよ。もうすぐ引っ越し業者が来るって連絡も来てたので。荷物運ばないと」


宮前に恋人が居る事は、面接や移住前のやり取りなどで柿崎も聞いた事があった。恋人が居ながらアンバサダーの仕事をしていると言う事は、必然恋人との時間が減ってしまう。それは申し訳ない。そう言って宮前と共にビルの下まで降りた柿崎は、まるで頭を殴られたかのような衝撃を受けた。


「つーくん!」

「あ…! 莉奈…ちゃん! ……、また、ついて来ちゃったの? 今日はちゃんと家で待ってるって…」

「…うん。 ごめん、でも…早くつーくんに会いたくて…遠くから見てたけど我慢出来なくって…」

「もう、仕方ないなぁ…………でも。僕もだよ、…ごめんね、待たせちゃって。僕も寂しかったよ」


宮前と離れる事が片時でも耐えられない、そして会えた事が何より嬉しいと言う表情の女性。その女性の、そんな仕草や振る舞いを見て柿崎は、身体に電流が走ったように感じたのだった。


そして柿崎は、まさに頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
その女性、莉奈に顔面を殴られたのだ。










某月1日 夜間

「ねぇ、つーくん」

「なんだい、莉奈ちゃん」

「つーくんの大好きなオムレツもうすぐ出来るよ? 早くおいで?」

「あ、もうご飯の時間か。ごめんごめん。すぐ行くよ」

「……また、アンバサダーの仕事?」

「うん、来月の移住希望者の書類に目を通してて…ね」

「………」

「でも、今日の仕事はもうこれでおしまいだから。ごめんね、もう大丈夫だよ。一緒にご飯食べよう?」

「…うん!」










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