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菫 8







某月25日 日中


その日は、通りである事件が起きた。有り体に言ってしまえば、殺人事件だ。

最初に包丁で脚を刺されたらしい男性が大声で助けを求めながら通りに飛び出して来た。その後ろから急がず慌てず、けれど歩みを止めず、包丁を持った女性が後を追う。脚を刺されたせいで上手く走る事が出来ない男性は、痛みに耐え切れず転んでしまう。そこに、追い付いた女性の追い打ちが入る。包丁は男性の腰に刺さった。

そんな騒ぎを聞いて、何事かと歩みを止める人間、通りに出て来る人間、家の窓から見る人間、様々な人間が居たが、少なくとも、その騒ぎを止めようとする人間は、一人も居なかった。街を歩いていた柿崎も、騒ぎを取り囲むように輪を作る傍観者の一人だった。

騒ぎを眺めている誰かの話し声が聞こえる。


「あ~あ、あの女の子、可哀そうに。悪い男に引っ掛かっちゃったんだね」

「だよね~。なんて馬鹿なんだろうあの男。ここは特区だぜ?」

「分かってないよね~」

「うん、アレは仕方ない」

「お幸せに、だね」

「うん、あの女の子に幸あれ、だ」


包丁を振り回している女性の事も、刺されている男性の事も、柿崎は知らない。故に、その場に居た人間たちの話を聞いて柿崎はこの事件を推量する事にした。

あの女性は、誰かに自分を見て欲しい、自分を見てくれる誰かが好き。そんな女性だったらしい。そしてその為には自己の身体も他者の危険も顧みない所があった。あの男性は、特区に来るような、そんな生き方しか出来ない女性と知った上で一緒に居た筈だ。

政府が一口に言うような、紋切り型のヤンデレやメンヘラなど居る訳がない。攻略法など存在しない。あの女性は殺人がしたくて特区に来た訳ではない。ただ満たされないものの為にそうした行動に出ると言う事を認められた上で特区への移住を許可された人間なのだ。あの女性との交際には死の危険が伴う。

それを分かっていながら、あんな行動に出るまで女性を追い込んだのは、ひとえに男性の努力不足だ。その上であそこまで見苦しく命乞いをするとは、とんだ浅はかな覚悟で特区に来たものだと呆れ返る。あの男性には、あの女性と共に幸せになろうとする意志が足りなかったのだ。自業自得である。

そんなような話を聞き纏めていると、遂には動きを止めた男性の上に跨って、女性が包丁を振り上げる。何度も、好き、好き、と言いながら包丁を振り下ろす頃には、周囲の人だかりはまばらになっていた。

今この場に鶴橋は居ないようだが、血が好きな人間、殺されるのが好きな人間、死体が好きな人間、色々居る。柿崎もまだ残って居て、むしろ食い入るようにその光景を見詰めていた。目を離す事が、出来なかった。

周りの人間の話を纏めるに、やはりあの男性の行動にまずかった所があるのかもしれないな、と柿崎も思った。自分も中途半端に別れていたら、今頃は逆上した鶴橋によってあそこに転がされていたかもしれない。ただ、それとは別にあの男性が最後まで醜く生き足搔く姿は、やはり美しかった。魅入られてしまった。

死だ。やはり死だ。自分は最高の瞬間の気持ちを持って死ぬ為にここに来たのだと柿崎は強く思い直した。ただの行きずりの傍観者である柿崎は、物言わなくなった男性の遺体に深く頭を下げてその場を立ち去った。



男性の遺体は、数時間後には綺麗さっぱり撤去されていた。現場検証など行われない。あの女性も、また何事もなかったかのように来月の歓迎パーティに顔を出す事だろう。










某月25日 夜間


「宮前さん。検討させて頂きましたが、アンバサダーを辞退したいと言うお申し出については誠に残念ながら、そのご希望に沿う事は出来ません、と言う回答になってしまう訳でして…」

「どうしてですか! それでは話が違う! ここは自分たちの幸福を追求して良い場所なんでしょう!今後も女性の希望者とやり取りをしていたら、僕の、僕たちの幸福は壊れてしまうんですよ!」

「宮前さんの仰りたい気持ちもよく分かります。それはそうですよ。お話をお伺いしてる限りですとその移住希望者の女性、単にコンタクトの回数が多いと言うか、宮前さんに粘着質な感じが見受けられますよね」

「そうなんですよ! かなり、僕個人に興味がある、みたいなメッセージを送ってくるんですよその人!彼女には、何度も何度も移住に関する質問をしてくるって言ってなんとか誤魔化してますけど、他の女性からそんな風な連絡が来ているなんて、彼女が知ったらどんなに苦しむか分かりますか!」

「そうですよね。恋人さんの為にそんな嘘をつき続けなければならない宮前さんもお辛いですよね」

「僕の事はどうだって良いんです! どんな事であれ、僕に嘘をつかれたと知ったら彼女は…彼女は…!」

「同じ特区に住む者同士、密な連絡を取り合えた方が良いと思い、アンバサダーの個人連絡先を移住希望者にお伝えしていたのですが…こう言った事が起こり得るんですね。申し訳ありません。この件に関しましては私どもの想定が甘かったと考えております。対応策を改めてお出しします」

「なら、アンバサダーの辞退の件は……」

「しかしながら、その件につきましてはやはりこのままお願いするしかないと考えています」

「………! いったいどうして!」

「こちらの内情をお話する事自体、情けない事なのですが、なにぶんこちらも人出不足、資金不足でして。特区維持の予算を確保する為には特区の有用性を対外的にアピールして行く事が必須なんです。その為に私どもも不眠不休は言い過ぎですが、手を尽くして頑張っております。今日も休日返上です」

「それは……っ、……おつかれさま、です…」

「私どもで出来る事があれば勿論して差し上げたいのは山々なのですが、現状私どもの人員では特区を維持させる事が精いっぱいな状態でして。移住希望者数が私どもの想像を超えていた事もあります。その為、当初は宮前さんのご希望に沿う形で男性移住者の担当をお願いしていた訳ですが、それも
さばき切れなくなり、止む無く女性移住者の担当もお願いする次第となった訳です。申し訳ありません。先日お電話頂いた時にこの辺りをゆっくりお話出来れば良かったのですが、あの時は忙しくて……。私の対応もどこかおざなりになってしまっていた事は反省致します。申し訳ございませんでした」

「いえ、それは………そう言う事、なら……」

「とにかくですね、移住希望者が増えていると言う事は特区の良さが認められている、と言う事で、有用性がある政策には予算が多く下りると言う訳です。ですから今は多少無理をしてでも何でも移住者が順調に増え続けていると言う事実をデータとして示していかなければ駄目、なんです。その為には一人でも多くのアンバサダーの方のご協力が不可欠な訳です。どうか私どもの為ではなく、ご自身の特区を守る為と思って、お力添え頂けないでしょうか。こちらでも随時人員の増強を図っております。今を乗り切れば宮前さんのご負担も減ると…とにかく今が大事な時なんです。ですからどうか、どうかご無理を承知で、お願い致します。宮前さん。力を貸して下さい」

「………」

「勿論、現状のアンバサダーの方々の労働環境が良いとは私どもも考えてはおりません。今回、宮前さんに声を上げて頂き、まだまだ考えが至らぬ点だらけだと痛感しました。ひとまず今月は本当に申し訳ありませんが、そのまま担当を継続頂いて、来月は必ず、男性の移住希望者を担当して頂く事をお約束しますので、どうか」 

「………」

「宮前さん…」

「……分かりました」

「…本当ですか! ありがとうございます!」

「…どうせ、特区がなくなってしまえば、私たちの生きる場所はなくなってしまうんです。特区からの出戻りの人間が、社会からどんな目で見られるかなんて、考えれば分かります。それに、ヤメ法が生きている限り、私たちは外の世界では死んだ事になってるんですよね。………こんな場所だ。いつ命を落とすか分からない。だから私も生前葬を済ませて来ましたし。私も、特区に来た時、ここに骨を埋める覚悟だった事を、思い出す事が出来ました。彼女の幸せも、特区の皆の幸せも、それを守る為なら、私に出来る事なら、やります」

「ありがとうございます、宮前さん。宮前さんと一緒に特区を作っていけて本当に嬉しいです。あの、来月が一番移住希望者が多くなりますので、ひとまず来月、来月乗り切って貰えれば、再来月はアンバサダーのお仕事、ひと月お休みして頂いて構いませんので。休暇取りましょう。その上で、アンバサダーを続けるか、辞めるかについてはゆっくりお話させて頂ければ、と」

「分かりました、再来月ですね。ありがとうございます。彼女と二人、頑張ってみます」

「恋人さんの容態に関して、私どもで出来る事があれば言って下さいね」

「ありがとうございます」










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