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菫 5







某月10日 日中

「柿崎さん、来てくれたんですね」
「あっ、鶴橋さん。こんにちは。今日はその…」
「良いんです、お互い楽しみましょう? …ね?」

柿崎を招待した鶴橋の住まいは元金魚屋で、古びた木造の店内狭しと並べられた空の水槽の間を抜けると居間があり、更にその先に二階への階段があった。

暗くて狭くて急な階段を登って左の襖を開けた部屋の中央には、真新しいシーツが敷かれたベッド。傍らのサイドテーブルには注射器やメスなどの医療器具が並べられており、さながら手術室の様相を呈していた。

鶴橋は、柿崎をその部屋に招き入れるなり抱き着いて重ねた唇に、噛み付いた。

噛み付かれた唇から血を流しながら、柿崎は先日のパーティ会場での会話を思い出していた。





「好きな人に……殺されたい? それが…柿崎さんの夢、なんですか?」

「はい…」

「え、それってつまり…」

「え~と、だから、…変な事を言うかもしれませんけど、もし、僕が鶴橋さんの事を好きになれば、僕は、鶴橋さんに血を、沢山見せてあげられるんじゃないかな、って……思った訳でして……」


その時の鶴橋の紅潮した顔と言ったら、獲物にありつけて舌なめずりをする肉食性動物のようであった。





そして今はそれ以上に昂っているのだと言う事を、積極的に服を脱ぎ始める鶴橋の姿から柿崎は理解した。鼻息荒く柿崎をベッドに押し倒した鶴橋は、柿崎のシャツをも脱がせに掛かる。その手付きは手慣れていた。そしてメスを手にすると、鋭利な刃で柿崎のあまり筋肉のついていない肩口から胸板まで薄く切り裂いた。


「痛い…ですか?」

「……っ、はい……、すごく……」

「あとで、ちゃんと処置しますから。血も、抜いて問題ない量、にしますから、だから……」

「良い……ですよ、僕の血を、僕を、もっと見て、下さい………」

「柿崎さん……」


こんな関係性になる前に、もっとするべき事があったのではないだろうかと、柿崎は思う。少しずつ、ぎこちなく、デートを重ねて同じ時間を共有し、互いの事を分かり合うための時間が。

だが、それはあくまで「外の世界」の常識であって、自分たちはそれよりもよっぽど強く互いを分かり合っているのだと自分に言い聞かせて柿崎は、歓喜の表情を浮かべる鶴橋の採血を受けた。



「大丈夫、ですか…?」

「あ、はい。なんとなくだるい感じはしますけど…」

「今からご飯の支度をしますから、柿崎さんは横になって休んでいて下さいね」

「え、そんな……良いんですか…?」

「はい。出来れば今日は…その、泊まって行って頂けると……」

「鶴橋さん…」


流血を伴う睦み合いの末、すっかり満たされた様子の鶴橋は、先ほどまでの鬼気迫る気配はなくなり、非常に家庭的な、それこそ最初に柿崎が抱いた清楚な印象の通りに穏やかに微笑むのだった。

幸せになるとはこう言う事なのだろうな、と思いながら柿崎はベッドの上で静かに瞼を閉じた。










某月10日 夜間

「莉奈ちゃん」

「…………」

「莉奈ちゃん? お風呂入ってるとこごめんね。あの、もうオンライン面接終わったからさ…」

「…………」

「莉奈ちゃん、怒ってるの? 僕が女の人とチャットしたから…」

「…………」

「…ごめん。やっぱり仕事でもイヤ、だよね。…あのさ、やっぱり莉奈ちゃんとしっかり話したい」

「…………」

「莉奈ちゃん? 聞こえてる?」

「…………」

「…あのさ。 そろそろお風呂入ってもう二時間だよ? いつもより…長くない?」

「…………」

「………莉奈ちゃん? ――――ごめん、入るよ!」

「…………」

「―――!! 莉奈ちゃん! どうしてこんな…! 莉奈ちゃん! しっかりして! 死んじゃヤだ!!」










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