菫 3
某月2日 日中
柿崎はメインストリートを歩いていた。早く特区に馴染もうと道や街並みを覚える為だ。だが、あまり道も街並みも頭には入って来なかった。頭に浮かんで来るのは別の事ばかり。
それは宮前が言っていた通り『気にするな、お互い様』精神を早速試して来るかのような、何に興じているのかは分からないが一晩中嬌声を上げていた隣の部屋の住人の事ではない。
「莉奈ちゃん……、か」
一目惚れ、だった。柿崎は莉奈との出会いで感じた衝撃に近い感情を、そう理解していた。人は嗜好品とは違う、と言う指摘を敢えて無視する形で一目惚れについて説明すると、人はそれまでの人生で培ってきた文化、感性、価値観、と言うものを持っている。そのいずれにとっても良い、と思えるものに出会った時、人はどう言う反応をするか。
米を主食とする文化圏の人間が、カレーが好きで、そこにカレーと同じくらい好きなトンカツが乗っているカツカレーを見れば、「食べたい」と思うのと同じように、柿崎に取って莉奈、と言う女性は一目見て「好きだ」と認識するには十分だった。
もう何度目になるだろう。柿崎は莉奈の姿を思い出す。
まず見た目。どちらかと言えば髪が長い女性を好む柿崎にとって、腰まである豊かな髪を持つ莉奈と言う女性はそれだけで魅力的だった。加えて、派手めな女性を苦手とする柿崎からしてみれば、化粧っ気のない、どちらかと言えば地味な印象を与える莉奈の風貌は大変好ましかった。
だが、客観的に見て莉奈の容姿が優れていないかと言えばそうではない。贔屓目を抜いても莉奈の容姿は「かわいい」と言って差し支えないレベルだ。その容姿をして、化粧っ気のない地味な容姿と言わしめるものをこそ、柿崎が莉奈に惹かれた要因だった。
宮前と柿崎の前に現れた莉奈はスウェット姿だった。髪もボサボサ、化粧っ気がないと言うより、何も身支度をしていない様子だった。
柿崎が特区に移住する前のやり取りで宮前は、自分には特区に来る前から恋人が居て、依存症や不安症状が出やすいその彼女の為に特区への移住を決心したのだと語った。
つまり莉奈は、一刻も早く宮前に会いたかったのだろう。それこそ化粧も服装も何もかも差し置いて宮前の顔を見る、それを第一に行動したのだろう。柿崎はそう思った。
そしてそれは、それだけ一途に熱心に宮前の事を想っているのだと柿崎の目には映った。たとえそれが依存的なものであったとしても、自分の全てを懸けて相手を愛する女性。
柿崎にとっては、そんな莉奈こそ、理想の女性と言うに相応しかった
「……と、言ってもなぁ」
柿崎は昨日莉奈に殴られた箇所に触れる。頬を平手打ち、と言うような生易しいものではなく、固く握り込んだ拳で、殆ど左目を潰しに来るかのような、そんな容赦も躊躇もない一撃だった。
失明こそ免れたのだが、左瞼は今も腫れていて、右目だけで物を見なければならない状態だ。
莉奈は突然柿崎に殴りかかり、ただ一言「その目で私を見るな」と吐き捨てた。その行動と言葉で、柿崎は全てを察した。莉奈は気付いたのだ。柿崎の一目惚れを。
愛する恋人の目の前で、自分にそんな視線を向けて来る柿崎が許せなかったのだ。
莉奈の暴力を止められなかった宮前が、殴った莉奈の手指を心配しながらも、しきりに柿崎に謝っていた。だが、殴られるだけの事をしたのは自分だと、柿崎は宮前に深く頭を下げた。「つい見惚れてしまいました」と謝罪した。
自分でも抑えられない感情だったとは言え、宮前と莉奈には悪い事をしたと柿崎は反省し、特区に来る事に尽力してくれた宮前に対する不義理をこれ以上重ねないようにと心に刻んだ。
そんな時、前方から大きな音が響き渡った。それは、スピーカーから発せられる声らしかった。
「―――そこで止まって下さい。これより先は許可のない特区居住者は立ち入る事が出来ません」
「うわっ?! す、すみませ……!」
考え事をしながら歩いていたら、いつのまにやら特区外との境界域まで来てしまっていたらしい。
許可なく特区外に出た者は、拘束の上、特区居住権を剥奪される。誓約書の内容を思い出した柿崎は、思わず発砲でもされるかのような及び腰で両手を挙げ、すぐさま踵を返して足早にその場を去った。
「……大丈夫、大丈夫。特区での生活は始まったばかりだ。運命の出会いはきっとこれからだ」
そう自分に言い聞かせながら柿崎は新しい我が家へと戻って行った。
腫れた左目を、撫でながら。
某月2日 夜間
「莉奈ちゃん」
「なぁに、つーくん」
「…僕、莉奈ちゃんに謝らなくちゃいけない事があるんだ。……話を、聞いてくれるかな」
「………なに?」
「僕が今担当してる、来月移住希望者の人……、女の人、だった」
「………………」
「ごめん、いつも男性の希望者を回して貰ってるから性別の欄、ちゃんと見てなくって…」
「………………」
「……莉奈、ちゃん?」
「……んは」
「え?」
「つーくんは、その女の人と、何か私に謝らなくちゃいけないような事を…したの?」
「え?! してないしてない! してないよ! してないけど…、僕が仕事とは言え女の人と関わるの、莉奈ちゃんすごく嫌がってたじゃない。だからなるべくそうならないように、ってここに来たのに…」
「…ううん。大丈夫」
「…ホント? 無理しないでも良いんだよ?」
「無理してない…訳じゃない、けど……つーくんが皆の為に頑張ってるのはすぐ傍でいつも見てるし、今は、昔よりもずっとずっと私を大切にしてくれてるの知ってるから…大丈夫だよ。平気」
「莉奈ちゃん……」
「…それに」
「それに?」
「そんな時はこうやってつーくんに飛びかかっちゃえば良いんだし!」
「…と、わっ?! ちょ、ちょっと~……もうっ。莉奈ちゃんには敵わないなぁ…」
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