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個人的な怨みとフィジカルな暴力

北野武監督の映画「アウトレイジ」の印象的なシーン。
坂田聡演じる岡崎は、一見サラリーマンにしか見えないヤクザ。ライバル組が経営するぼったくりバーに引っ掛かったふりをし逆にやりこめて、キャバクラで武勇伝を披露している。

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岡崎:それでその店もういっかい行ったら、こんどはタダでけっこうですなんて言われちゃってな!笑っちゃうよな!
(一同笑)
先輩:お前、ホントは引っかかったんじゃねーのか?
岡崎:ハハハハ、そんなわけないじゃないですか
先輩:だってお前、ちっともヤクザに見えねーもんな
岡崎:ハハハ。…それは、ほめてるんですか?
先輩:ほめてるわけ、ねえだろ!!バーカ!!
(一同爆笑)
岡崎:(急に静かな声で) バカってなんだよ?
先輩:あ?
岡崎:バカのカネで飲んでんじゃねーぞコラァ!!
(立ち上がって先輩に殴りかかる)

それまで大盛り上がりだった場が「バカってなんだよ?」の一言で凍りつく。わたしは、こういうのがいちばんこわい。さっきまで笑っていたのにいきなり恫喝したり殴ったりする人。

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さすがに社会人になってからは殴るというシーンに遭遇することはないが、「一線を越えてはいけない人(もしくはそういう人物だと思われていたい人)」というのは学校であれ職場であれ、どの集団にも一定数存在するような気がする。新人の時、飲み会の席で、若いころやんちゃだったという噂の先輩にうっかりタメ語で接してしまい、翌日倉庫に呼び出され「次、ここでフルボッコな」と言われて本当に嫌な思いをした。

深夜のコンビニ前でたむろする若者と目を合わせない、居酒屋で騒ぐ集団に注意しない、運転マナーが悪い人にクラクションを鳴らさない… こういったフィジカルな暴力に直結するリスクがある行為は、なるべく控えるべきだということは、日本では常識になっている。

加えてわたしが特徴的だと思うのは、これらが「一般人の一般人に対する暴力」であることだ。

海外でもリスク管理が重要なのはもちろん常識だ。ひとりでうろちょろしない、繁華街で客引きについていかない、貧困地区に足を踏み入れない。ただ、この心得は何よりも「犯罪に巻き込まれないため」にある。バックには何らかの組織があり、暴力が発動することがあっても、それは組織的目的(たとえば金銭の強奪)を達成するための手段のひとつである。つまり「プロが暴力を行使」している。

日本のように「一般人が暴力を行使」する可能性を考慮することが社会的常識に登録されている国は、実は少ないのではないだろうか。

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中国に住んでから、「一般人からの暴力」のリスク回避について考えたことがほどんどないことに気づいた。

中国でも、もちろん個人的な怨みは存在する。「人前で部下を叱ってはいけません」というおなじみの研修は、メンツを傷つけると怨みを買うから気をつけろ、という警告とセットになっている。

では中国でメンツを傷つけられた人はどのような手段を用いて私怨を晴らすのか。

暴力ではない。

「相手のメンツを傷つける」ことで晴らすのである。

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こんなことがあった。
雨でも金曜日でもないのに車が大渋滞していてさっぱり動かない。仕方がないのでバスを降りて歩いていくと、道の真ん中に倒れたバイク、その横に足を「ルの字」にして倒れている人がおり、車の通り道を塞いでいる。大変だ事故だと思ってよく見ると、その人は倒れた姿勢を保持したまま、携帯でどこかに電話したり、やじうまに何かを訴えかけている。彼は自分で自分を「現場確保」することで、間違いなく自身が事故の被害者であることを周囲の人々に証明させようとしていたのである。もちろん糾弾された側も黙ってはいない。運転席の窓から顔を突き出して、オレはぶつけていない、こいつが勝手に転んだんだと周囲に訴えている。けっきょく警察が来て、二人とも路肩に寄せられた。

会社では。
ある営業社員が成績が悪かったために、みんながいる場で営業次長からボロクソに罵倒され辞めていった。その数日後、「営業次長と思しき人物が不正を働いている」ことをまことしやかに詳述したメールが差出人不明の捨てアドから全従業員宛てに届いた。いわゆる怪文書である。あいつの仕業に間違いない、と次長は激高し、法務部経由で発信者の特定と警察への通報を要求し大騒ぎに。しかし法務の見解は「内容が事実無根、かつ営業次長その人のことを指している直接的な記述もないため、被害者不在、通報不能」というものだった。そこで次長は態度を一転、だんまり無視を決め込んだものの、最初の騒ぎ方が尋常ではなかったため、あれはもしかして…と社内の噂になってしまい、噂を無視できなくなった管理部が調査に乗り出すらしい、という話がささやき出されたころに、ひっそりと退職していった。

このように中国式のメンツによる仕返しは「群衆の過半数支持を得ることによる敵の社会的抹殺」を目指して行われる。

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最近はスマホアプリ広告でマンガアプリのバナーをよく見かける。小さな画像から垣間見えるその多くが「いじめで自殺した娘の仇をとる」「両親を死に追いやった連中に制裁を下す」「幸せそうに暮らす隣人がむかつく」など、個人の恨みを個人で晴らすという筋立てである。この話型にそれだけ需要があるということなのだろう。いやなことがあると恨めしい気持ちになるのは自分もそうだし、どうにか解消できればいいとは思うけれども、ごく一般的な読者の中にも黒々とした「私怨の暴力的解決への肯定」が伏流していることを考えると少し気鬱になる。

北野武は、暴力を行使した人間は最後には不幸になると言っている。

北野映画で避けて通れないのが“暴力”である。(中略) そして「暴力もヤクザも肯定はしない。むしろ否定している。拳銃を持った人間は、最後には不幸になるっていうのを描いているつもり」という旨の発言をしている。
~Borderless Tokyo より~

フィジカルな暴力なんてなくなればいい。私も心からそう思う。中国式のメンツ仕返しは、周囲の人に不要な迷惑をかけるので(大渋滞とか)、いい方法だとは決して思わないけれど、少なくとも「みんなを味方につけて勝ちたい」というコミュニケーション志向がそこに介在していることが、短絡的な暴力的解決に比べれば、ずいぶんと人間的なやり方に思えるのである。


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