半沢直樹と中国の親和性を考える
敵を倒す手段として日本では「殴る」、中国では「メンツを潰す」という話を先日書いた。あとになって、そうだ例外があったではないかと思い出した。
半沢直樹である。
彼はフィジカルな暴力を振るわない。どれだけ怒りに燃えても鉄拳制裁はしない。相手を土下座させることのみを目指して全エネルギーをそこに集中させる。
これってかなり中国っぽいアプローチではないだろうか。そう思った。
怨みを晴らすだけであれば、地下駐車場に呼び出して殴るなり蹴るなりすればよい。しかし半沢はそうはしない。それは彼が倫理的な人間だからはない(どちらかというと倫理観には問題があるタイプである)。そうではなくて、公衆の面前で土下座をさせることの方が、相手に回復不可能な深い傷を負わせられることをよく知っているからだ。この「公衆の面前で」というところがミソである。
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中国では本当の敵を直接攻撃することはしない。もっとも有名な例では、1965年に人民日報に掲載された「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」という評論から始まる闘争がある。あまり詳細を書くとまたネットがブロックされてしまうかもしれないのでかいつまんで説明すると、ある権力者が、政敵の子分のそのまた子分が書いた演劇の台本を読んで「まるで俺の政策を批判しているようだ」というこじつけを思いついて、自分の子分を使って大騒ぎさせてみたらまんまと世論も乗ってきて、10年かけて政敵を失脚させることに大成功、という話である。この過程でとんでもない数の人々が巻き添えを喰らった。
ものすごくまわりくどい方法だと思う。子分どうしを戦わせるくらいならまだしも、子分の子分が書いた劇の台本を狙うとはどれだけ迂遠なのか。無関係な人々を巻き込む必要はあったのか。男だったらタイマンで勝負しろ。矢島金太郎ならばそう言うだろう。けれども、しない。中国では「絶対に」一対一での決闘を避ける。
このやり方は現代中国でもしっかりと引き継がれており、うちの会社の会議などでもときおりみられる。
営業部と経理部の対決の場であるはずなのに、どちらもなかなかお互いの批判に踏み込まない。すると突然、営業部長が自分の部下に向かって怒鳴り散らす。「お前の連絡が不徹底だから、経理部にこんなに迷惑をかけてしまったではないか!」と。
みんながびっくりして聞いていると、その部下の落ち度して批判されている内容というのが、まさしく経理部の仕事そのものなのである。この営業部長は、「他部門のミスを自分の部下のミスだと早とちりして部下を叱責する理不尽な上司を演じることによって、怒りの矛先を他部門に向けることなく他部門の仕事内容そのものを批判する」というものすごくややこしい戦術を採用していたのであった。
あまりの剣幕に見かねた経理部長が、まあまあ、わが社は罪を憎んで人を憎まずじゃないですか、とよくわからない助け舟を出すハメになり、では経理部の更なるご指導をお願いできますね?と営業部長がすかさず睨みつけることで会議は営業部の勝利のうちに終わる。
怒鳴られた部下こそいい面の皮ではなかろうか。そう思って会議終了後も見ていると、部下は肩をポンポンと叩かれて喜んでいる。驚くべきというか、果たしてと言うか、事前に筋書きはすべて描かれていたようなのだ。茶番か。
そして更に驚いたのは「今日は参加してくれてありがとう」とわたしが礼を言われたことだ。自分は一言も発言していないし、ぼけっと一連のやりとりを聞いていただけ。どういうことかというと「観衆がいる」ということが相手を追い込むためには不可欠なファクターということのようである。わたしは沈黙することで、営業部の主張に暗黙の同意を与えるという「世間」の役をいつのまにかやらされていたらしい。
なんなんだこのまわりくどさは、と思う。
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けれども、観衆を巻き込んで相手を追い詰めていくという手法は、半沢直樹もさほど変わらない。このドラマはシーズン1もシーズン2も中国ではかなり人気があったのは、よく言われるような「下剋上」が潜在的な民意を代弁してくれてすっきりしたから、というよりは、敵の追い詰め方に既視感があったからという理由だと思う。クライマックスは債権放棄拒絶の生中継だが、この「日本中が注目する」最終対決を見届けるためにどれほどの人の時間が奪われているのかが考慮されることはない。自説の正しさを証明するために、観衆の「量」をエスカレートさせていくのは中国的にも必然的な納得感がある。
一方、サラリーマン金太郎はすぐにカッとなって相手を殴ってしまうので、勝敗はわかりやすいけど、残念ながら中国ではヒットしないと思う。
わたしは、半沢式の観衆熱狂型も鬱陶しいし、矢島式のタイマン決着型もこわい。ではお前はどうやって闘うのだと言われると、へこへこ謝ってさっさと逃げる型という、これまた中国では最高にダサいやつなのであった。