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ストーリーで“意味深”をうかつに使うと :その3、伝聞編

 伝聞は言葉の意味を遠ざける。

「~らしい」「~と言っていた」「~だそうだ」など、誰かから言われたことを、また別の誰かに話すとき、それは伝聞ということになる。これは即ち、わかりやすくその内容を間接的に表現しており、つまるところ、その内容の正しさや信ぴょう性などについて、責任を持たないという言い方である。
 つまり無責任な発言というわけで、これをストーリーの中で、その登場人物に言わせる際にも、この無責任性が問題となってくる。即ち、伝聞で発言する登場人物の内容は、本当かどうかわからないのである。すると、それを聞いた誰もが、それをすんなりとは信じることができなくなる。その内容そのものよりもまず、それが本当かどうかという点を吟味しなければならないのが、伝聞だ。
 加えて、ストーリーというものは、常にそれを受け取る者が、その確からしさ、納得のしやすさなどをチェックするものだ。ストーリーを楽しむ最も一般的なやり方は、それに没入することである。没入するとはそのストーリーが確からしいと、本当だと、信ぴょう性のあるもので、我がことに等しいと、受け手が思うことだ。

 そう考えると、伝聞というのは、そのストーリーの楽しみ方に対して、少なからず対抗する表現方法となる。ストーリーの中の登場人物すら本当かどうかわからないという立場で発言するのを、はたしてストーリーの受け手が没入できるだろうか? それよりもまず、どうしてその発言が伝聞なのか、元の発言はどれくらい確からしいのか……など、そういったことが気になってしまうものだ。それは、没入を邪魔する。

 このように、内容が登場人物をまたいで間接的に表現される「意味深性」が、伝聞表現のデメリットである。そのため、伝聞がストーリーで多用されていると、没入度を下げ、楽しむことが難しくなる。だから、伝聞が多用されることは、ストーリーにおいては充分に注意されるべきことなのである。

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