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生きる意味と、自分の「やりたい」と「やりたくない」とを

 もうやりたくないと思った時、それをやらないことができるようになりたい。そして可能なら、またやりたくなった時に負い目なく簡単にできるようなら最高である。やりたくない気持ちに素直に。そしてやりたいという気持ちに忠実に。
 それが自由ということであり、生きるということであり、一方でそれを邪魔するのはほとんどが自分自身だ。やりたい、やりたくないと思うのは自分である。そしてそれが良くないことだとか、しないようにしようとか、あるいは無理矢理にでもやろうとか、思うのも自分自身でしかない。
 一度やめてしまったものをもう一度やるのに気まずさを感じるのか?格好悪いと思うのか?それとも自分の継続力のなさを恥じるのか?結局、そう言う時の障害の大部分は本人の気持ちであり、自分だけが自分を押し止めるのである。

 人生は長く、中断は当たり前だ。もちろん新しいことを始めるのも、知らない世界に飛び込むのも、そして、元の場所に戻ってくるのもなんら不思議なことではない。その当たり前に優劣はなく、他人と自分に違いもない。やりたいと思ったらやればいいのだし、やりたくなくなったらやめればいい。そうすることができずに、意思と心がバラバラになることこそ、くだらないことだ。
 でももちろん、そうなってしまうことがある。仕方がない。ただ、我慢する必要はない。どうせ自分のためにならないのだから(自分のためになるのなら我慢すれば良い)。

 少なくとも私達は、自分の生き方を自分で決める。それが自然の摂理であり、むしろ、やめられないとすればそれだけである。だから他の、自らの意思や心や感情が望み、そして望まない何かは、その通りになるべきなのである。
 それが、もうやりたくないと思った時、それをやらないことができるように。そしてやりたくなった時に負い目なく簡単にできるように、なのだ。今、
 生きている目的。
 まあ、そんな大層なことを考えなくとも、自分の好き嫌いくらいは、自分の好きにできることを当たり前だと思いたい。

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