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世界はキャラクターこそが注目されて
物語を楽しむエンタメというものができてから、今はじめて、キャラクターが非常に「立つ」ようになった。彼らは、例えば、授業中に椅子の上に立っている学生のように、その部屋の中で目立ち、そして無視できない存在となっている。
元来、キャラクターが立っていたのは廊下だった。それは懲罰のためというわけではなく、文化祭でクラスの出し物のために呼び込む係として、廊下で声を張り上げている、そんな役回りということだ。
キャラクターは、物語の中にいる場合、普通は物語の流れに逆らえない。身を任せていると言ってもいい。あるいは、キャラクターたちが形作るのが物語であるから、必然的にその枠からキャラクター自身ははみ出ることができない、とも言える。
しかし、今、物語とキャラクターの関係は逆転した。
キャラクターはもう、「先にいる」。今まで、キャラクターは物語というクラスに編入される新入生か、あるいは転校生だった。それが、彼らはいつしか、自分達でクラスを立ち上げ始めた。部活と言ってもいいかもしれない。彼ら自身のコミュニティを、彼らはどんどん新設する。
そればかりでなく、キャラクター達は「学校」すら立ち上げ始めた。もう、ごまんと学校の設備やシステムや運用方法は例があるのだから、それを作り上げることもキャラクター達には可能なのである。そうして彼らは、何もかも――物語というものを――自分達が「主」として、この世に成り立たせることに成功した。
これらの変化は、キャラクターというものが世界的に注目を受け、重要視されてきた結果である。最早、私たちは誰も、キャラクターを無視できないし、キャラクターを知ることを当然だと考えている。そしてそのための「手段」として、物語が運用されている。元々、物語はそのものは「目的」であり、それを動かす手段がキャラクターであったはずなのに。
このキャラクター中心を基本とする物語の傾向は、今後も変わることはないだろう。なぜなら、物語よりもキャラクターの方が「量産できる」からである。商業的に、より多く世に送り出せるもののほうが重宝されるのは変えがたい常識だ。だから、物語はこれからも、キャラクターのためのものになる。それは1人1人のキャラクター性に合わせたテーマを持つ、基本的には長編にはなり得ないものだ。それらの単発的なものの組み合わせによって、物語は今まで通りの長さを維持することはあるかもしれないが。
物語を楽しむエンタメは、今と昔とでは意味が変わった。それは、キャラクターの存在が転換点だった。私たちは知らず知らず、キャラクターを重用している。物語という目に見えないものよりも、目の前にいることのできる、想像に難くないキャラクターを気にしてしまうのは、当然と言えば当然だ。
だから私たちはこれからも、そのキャラクターたちに廊下で呼びかけられ、ふと、彼らの作り上げた出し物を楽しんでしまうことになる。
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