”本物” のない世界へ。
どんな生命体も、動かなくていいものならそうしている。この地球上のあらゆる生命体は、動くだけでエネルギーを消費し、それを補充できなければ死んでしまう。つまり、生きるための行動が死を招くようにできている。これは明らかに欠陥だ。しかし、そうなっている以上、仕方がない。
だから私たちは怠けるのである。できるだけ。動かないでいられるならそうしたい。遠くにあるものより近くにあるもの。何度も行うよりは1度で済ませる。複雑よりは単純。そんなものだ。
これは、生き物である以上どのような人にもあてはまる性質であり、それは、私たちの ”消費行動” に表れる。
端的に言って、この社会では ”本物” よりも "そこそこのもの" が求められている。
とりわけ様々な商品がそうだ。家電は必要最低限の機能が備えられていればそれでいいし、食べ物は美味しければいいか、場合によっては健康的に問題がなければいい。エンタメは話題になっていれば、洋服は見た目が変でなければ、家は必要なだけの部屋数があれば。
個々人の好みはあるにしても、平均的に、あらゆるものはそこそこでいい。あまりに多くを求めると値段も手間も増える。ならば最初からそういうのは求めない。至極、当然の感覚だ。怠け者らしい選択と言える。
この感覚は大いに加速している。誰も余裕がないからだ。経済的にも、精神的にも。そうしてそこそこを求める。本物を求めるにはちょっと苦労が多い。そこそこよりも大変そうだ。だったら別に、そんな労力はかける必要がないのではないか?
動けば早まる死を、誰も補償してくれない。自己責任だ。それなら、叩いて渡るのが橋である。本物を求めるのはリスクとなる。そこそこならば、コストもそこそこだろうし、後々の万が一のために備えることだってできる。そういう考え方のもと、私たちはそこそこを求める。
本物を求めないということは、”こだわり” は無駄だという話になる。本物とはそこそこの者を更に追及することでえられるものだからだ。そこそこで止まるのならば、こだわりはいらない。
だから、現代はこだわれない社会なのかもしれない。こだわっている時間すらもったいないのだし、そんなことをするだけの利益が返ってくるかも怪しい。そんな考えの元、こだわりは薄れていく。この社会から。
そうしてそこそこはもてはやされる。
我々の消費行動の向かう先は、こだわりのない、そこそこの世界だ。そこに、本物はない。
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