下ネタは別に嫌われていない。
下ネタは忌避される。相応しくない場だからと、言ってはならないからと、恥ずかしいからと、教育に良くないからと。それは出てきた途端に、往々にして眉根を潜められる存在だ。あるいは苦笑いや、愛想笑いに押しやられ、舞台袖に退場させられる。下ネタに興味があるなどと口が裂けても言えないだろう。それが好きな人はまるで社会不適格者のように思われる。自由主義が広まった今でさえそうだ。もしくは下ネタは、下品なおじさん趣味だと揶揄されて、この社会には必要のないものとすらされる。
それはなぜだろう? 下ネタは確かに必ずしも社会に必要なものとは言えないが、別にそれは単なる「表現」であり、言ってみればもっともっと人間の心に有害な表現はたくさんある。しかし下ネタは、その触れる機会が多い(意図していなくとも、そう捉えられる表現で世の中が溢れている)からか、特に拒絶反応を良く目にする。総合的に、その有害度合に比して、それは排斥されすぎているきらいがある。そんなに下ネタは良くないものなのだろうか? そうであるならば、それはなぜ?
実は下ネタは、その中身よりも、それが私達の心に生じさせる影響において有害度が高いのだ。
一般的に、下ネタを目の当たりにした時、私達は「恥ずかしい」と思うことが多い。それ以外にも単に「言ってはならない」や「聞いてはならない」と誰かに叱られたことを思い出すのもあるだろう。怒りを覚える人もいる。
これらは私達の心理に働く影響だが、しかし、大人しかいない場なら下ネタが許容される場合もある。その場合、それこそ子供じみた下ネタではなく、そういうふうに聞こえるとか、さりげなく比喩を用いているとか、あるいはもう「ネタ」ではなくそれについて真面目に話をするなどが当てはまる(性教育であれば、子供の前で話すこともある)。
一方で、子供達は子供達の中で、各々の下ネタを楽しむ。大人がいないところならば怒られないし、何か言われることもない。そういう場で、思う存分、子供の好きな直接的な下ネタが遊ばれている。
この「大人」と「子供」それぞれの中で運用される下ネタに、覚えがない人は稀だろう。忌避されると言いながら、それぞれが、それぞれのやり方で下ネタを使っている。こういった諸例を考えると、つまり下ネタとは「大人と子供が混合されている」場において、拒絶反応が大きそうなことが分かる。そしてまた「男女」が一緒にいる場合においても、それは忌避されることが少なくない。
下ネタとはある種、強烈な共通言語なのである。それが「下」なのか、そして「ネタ」で済むのか。そして笑えるのか、共感できるのかなどということが、コミュニティ単位で敏感に規定されている。
だから、自身の持つ下ネタを、共通言語を持たないコミュニティに持ち込めば、当然に拒絶されるだろう。大人の場に子供が紛れ込むのは分不相応だし、反対であれば侵犯だと言われる。男の下的な常識を女性に対し持ち込むのはマナー違反であり、その反対はほとんどの場合、共感性を得られない。
だから下ネタは、実のところ、それそのもののせいで忌避されているのではない。それは「性」にかかわる私達人間の大切な一部分を誇張するものである。だから大人と子供の社会的責任や、成長段階における経験、男女の性役割など、「違い」を顕在化しやすいネタなのである。私達は表向きは同質であるという考えのもとで生活しているから、その表された強烈な違いは違和感となり、私達の拒絶反応を引き起こす。
そうした心情が、下ネタに対して様々なレッテルを形成するのである。だが実際それは、共通言語なのだ。私達はそれ自体が嫌いなのではなく、それが生じさせるコミュニティの不協和音、軋轢の予感に、気持ち悪さを感じるのだ。
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